① より
さて、指示とおり歳様の宿舎である有川村の種田家に、渋谷さんたちが訪れたようです。
夫より余は高橋孫六を従ひ、土方の旅宿種田方に至るに、徳右衛門主人は台所に在て縛に就き居り、見るも亦気の毒にてありし。歳三は余を奥坐敷に伴へ、従容語て曰く、我徒、今般鷲木村へ上陸せしは。素より戦事を好むに非す。
(戊辰十月賊将ト応接ノ始末)
この種田家というのは、当主の篤左衛門さんが幕府から原野十万坪の開墾を命じられて成功した人だそうです。
慶応元年の長州征伐時には、次男名義で幕府に六百両も献じているんですって
また、松前藩の大属(会計方)として仕えている御家だそうですが… ご主人、縛られていて見るも気の毒って、何をしたんだ
面談の内容としてはまず歳様が、
自分たちはもともと戦を好んでしてきたのではなく、朝廷に対して謝罪し寛典を懇願したけれど、認められなかった。
その為に蝦夷地を開拓して「前罪を贖はんと欲す」。
しかし督府の兵が襲撃してきたので、「武門の習ひ」としてやむを得ず接戦したところ、勝ってしまった。
「是れ果して我徒の幸なるか。復た不幸なるか、未た知る可からす」とはいっても、こうなった以上は兵力をもって掌握する。
というような事をおっしゃったというのです。
ん~
勝ってしまったことが、自分たちにとって幸いなのか、不幸なのか
って胸にズンときてしまいます
それと、ちょっと と思ったのが、蝦夷の開拓をもって罪を償おうとした云々という部分。
この「罪」というのは、要するに新政府軍=官軍に対して抗戦したという事
この言葉は歳様は使うかなぁ。
まぁ渋谷さんが「書いている事」であり、そっくりそのままの発言ではないのは承知。
さらに「ものは言いよう」的なことなのかもしれませんが、私個人としては引っ掛かりがっ
その後に続け、
前藩主(松前崇広)は徳川家の閣老であって勲績もあった。
しかし現藩主(徳広)の持論はどうなのか(意訳です)
と。
皆さま、勇さんが一度だけ江戸に戻った時のことを覚えておられますか?
その時に新八っちゃんを連れていったのは、当時老中であった崇広さんとの縁があったからといわれています。
勇さんが、松前藩公用方を通して建白書を出しましたね。
それに対して渋谷さんは
現藩主は、勤王の志深く云々と内情を語り、
「勤王、佐幕両全し難きを如何せん」と。
そうなのですよね。
幕府に恩はあれど、朝廷(新政府)の命に従わないわけにもいかない
という事なんですよね
その後「歳三、艶然として曰く」
「じゃ、戦うしかないな」
「いや、ちょっと待って。軍議を開いて和戦の方向にもってくから、とりあえず11月10日まで進軍はやめて」
「和戦したいというのであれば、もともとこちらは望むところであるが、期日を過ぎたら即、兵を発するぞ」
「決してそんなことは…」
ということで、
「じゃ、すみませんが差支えないように帰藩したいので、通行の印鑑をもらえません?」
「明朝、茂辺地出張の渋沢へ伝えておく」
という事になり、渋谷さんたちが歳様のもとから自分の宿に帰った時には、「既に鶏鳴暁を報せり」という時刻だったようです。
(かなり意訳ですので、悪しからずご了承下さいませ )
※13代松前藩主崇広墓(法幢寺) Sさま提供
※14代松前藩主徳広墓 同
2018年12月11日 汐海 珠里