本日から金融機関は、3日までお休みです
いよいよ(やっと?) 年の瀬という気になってきました
さて本題は、昨日の続きです
150年前の本日は、明治元年11月16日。
この日、榎本海軍・土方軍ともに江差に集結したのですが・・・
昨日書いたように、前夜からの暴風で開陽が暗礁に乗り上げました
一昨日に箱館を出港した開陽ですが、松前に立ち寄っております。
その時に榎本さんは上陸。
松前城を守る遊撃隊の人見さんと会見しました。
この時榎本総裁開陽艦に乗り大風雪を侵して夜中忽然松前に来り。上陸、入城して我と会す。これより江差に急航すと。我意外に感じこれに答へて曰く、
「江差へ敗走の残兵僅々たり。これにのぞむは割鶏牛刀ならん。かつ大風雪侵して進行するは危険の績ならんか。明朝を待って発しては如何か」
と。同氏曰く、
「足下の言もっともにして敬服すれども我が輩これをあえてするは畢竟政略たり。君これを諒せよ。鷲ノ木着艦来今日平定にいたるまでことごとく陸軍にて功を奏し、海軍は一戦もなさず、不満の徒もあり。気休めのため、戦争まったく終わらざるうちに敵に向い、一回にても発砲せしむる計策に外ならず」
と、立ちながらブドー酒を飲み早々立ち別れ乗艦発行せり。
(人見寧履歴書)
人見さんの同様な言は、史談会速記録にも残っています。
以前、こんなにまだ色々と調べる前には、
「榎本さん、なんていう事を! 必要もないのに海軍がまだ一戦もしていないからって理由だけで、暴風雪の中を行くことはなかったんじゃないの っ 」
と、ちょっとプンプンしておりました
けど…
ここ数日の記事を読まれている皆さまにはおわかりかと思いますが、「戦で功を挙げる」というのは、現代の私たちには計り知れない強い想いがあるのですよね。
全部そうじゃないですか
様々な先陣争い、先鋒争い…
彰義隊の分裂だってそもそも軍資金の確保を優先させたというより、その間に他の隊に「一番乗り」の名誉を取られてしまったからですよね。
そう考えると、榎本さんが多少の無理をしてでも、海軍に花を持たせてあげたかった気持ちが、痛いほどわかります。
ただ・・・
本当に開陽の沈没は、大きな大きな痛手ではありました
此事間もなく箱館に聞えければ、諸人大に驚愕、直に回天艦神速
を出し之を救わしめたれども、功なき而巳ならず、神速も大風の為海岸に吹寄せられ、遂に廃物となりたり。
全島の海陸軍之を聞き、一駭一歎胆を破り肝を寒うし切歯扼腕涙を堕す斗りなり。
(南柯紀行)
開陽座礁の知らせに、回天と神速が救出に向かいます。
22日に江差に到着しますが、風浪の激しさに回天は箱館に戻り、神速は故障の為に碇泊しようとして鎖が切れ、これも座礁。
結局は開陽も神速も、十数日をして沈没してしまうのでした。
いつからか、語られるようになった「伝説」
土方歳三 嘆きの松
今から7年前のこまめと私
2018年12月29日 汐海 珠里
☆ 「嘆きの松」は完全に創作。
脇哲氏が「誰も書かなかった箱館戦争」に記述。
しかしあれは作り話と、釣洋一氏が昭和の終りの頃に本人から聞いているとの事。
またそれ以前に、「江差に残る古老の話」として野田雅子氏が昭和62年に伝説を紹介している。
(榎本と土方がともに悔しがっていたという)