昨日の続きです
150年前の本日は、明治元年11月5日。
この日、旧幕軍は松前城を落としました。
歳様は守衛新選組他を率い、城の背後から侵入し突破口を開きました。
五日暁天に乗して松前を襲ふ。回天艦、蟠竜艦開帆す。然るに暴風蟠竜艦後れ独り回天艦而已吉岡峠の沖に来り砲を放つ。(中略)
総督陸軍隊守衛新選組を率て城裏に廻り梯子を以て石橋を登り城中へ潜み入。敵軍未た不知。
(島田魁日記)
我軍是を防いで直に進て五日松前城を襲に、敵城中より大砲小砲打出す、是を見るより大手搦手より進み攻むれば一時に落城す。
(立川主税戦争日記)
同五日夜、勢揃い凱歌を作り、一時に松前城に迫る。此里数五里有と雖、途少も支へすして落城す。直に攻む。
(戊辰戦争見聞略記)
五日早暁松前城を攻撃せんとて、全隊の兵をニ道に分たしめ其一隊は海岸に沿ひて進み、(中略)
之に乗じて彰義隊は正面に向ひ、陸軍隊、額兵隊は後面より迫りしが故、城兵防き兼城下の町家に火を於ち江差の方へ迯け去れり、之に由て全軍松前城下に繰込宿陣せり。
(南柯紀行)
石井さんが「凱歌を作り」って書いていますが、どういうものなんだろう とちょっと気になった
この松前城の攻防の時、城郭内部に据えた大砲を、門を開いては撃ち、すぐに閉じて砲弾を装填、再び開いて撃つ、というようなことを繰り返したという事が、麦叢録・説夢録・北洲新話、その他様々な史料に書かれます
なのでこの時、
銃を構えていて門が開くと同時に連射してこれを突破した
という事ですが、この作戦を歳様が指示したとも流布しています。
けれど、歳様が考えた突破作戦とは、どこにも書かれていませんからね
これはきっと何かの本に、「土方の作戦だったのだろう」的なことが書かれていたのが、広まったのかもしれませんね
歳様ご自身は陸軍隊と守衛新選組を率いて、裏手に廻った様子。
彰義隊が正面門を破る前に、裏門から城内に入ったようですよ。
此より先に我一軍既に山を繞り、城の搦手に迫り墻を越へて城内に乱入し、大手の我兵と共に、二、三の城門を奪ひ、玄関其他の口々より乱れ入る。
(説夢録)
港では回天と蟠龍がやってきていましたが、風浪の為に蟠龍は箱館に引き返し回天艦のみで、城下に艦砲射撃を行いました。
けれど波が高く狙いが定まらずに、民家を焼いただけのようです。
(この後11月7日に、2艦は青森港に嘆願書を持って、青森総督府に向います)
額兵隊は松前城東の高台にある法華寺に大砲を引き上げて、そこから松前城へ砲撃をしかけています。
この時松前城にはすでに藩主の徳広さんはおらず、館城に移っておりました。
藩主名代他百名余りの藩士のみだったためか、わりとあっさりと脱出した印象です。
戦いで死ぬのであれば、我殿を守って討ち死にしたい、という想いもあったのかもしれません。
城に火をかけ、また民家にも火を放って退去。
このために市中の3/4が消失したそうです
旧幕軍は、この後10日まで城および城下に帯陣することになります。
が
皆さま、ここで思い出すのは、
歳様が逃げ遅れた藩主夫人たちを助けた
というエピソードではありませんか
以前、ブロ友のHちゃんも記事にしていました
そのエピソードの事を書く時がやってきましたよ。
明日ね m(__)m
2018年12月18日 汐海 珠里