昨日の続きです キラキラ

150年前の本日は、明治元年10月28日

この日、歳様は渋谷さんらの出頭に立ち合いました。

 

 

十月廿八日、余及ひ安田は井口、高橋、斎藤の三氏を従ひ第十字、五稜郭に至る。松平太郎、玄関正面に在り、土方歳三、右側に陪席をし、兵隊二行、左右に正列す。

太郎曰く、昨日、土方迄陳述せられたる処の事情は余、深く関心せり。依て福山へ通行苦しからず。尤も有川村に於て、土方より懇々御談しの次第も有之に付、今夕同村に待受らるへしと。

   (戊辰十月賊将ト応接ノ始末)

 

 

昨日の書簡に従って、五稜郭へ出頭した渋谷さんたちですが、言い分が通り、福山までの通行が許可されました。

が、「有川村」にて歳様を待つように言われたのですね あせる

えっと…

昨日、渋谷さんが歳様に言ったことも含め、ちょい補足。

 

 上矢印 五稜郭から松前までの地図。

 

松前藩というと、新八っちゃんを思い出しますが、この蝦夷地での唯一の藩でありました。

先日ご説明のようにすでに藩論は新政府側にあり、箱館府知事が蝦夷を脱っしているのですから、これと対峙しないわけには参りません汗

けど、後述しますが、あくまでも「戦いありき」ではないですよ。

なるべく穏便にすませたいからこそ、渋谷さんたちの帰藩も認めたのですから。

ただ攻撃されれば迎え撃ちますし、先手をもって戦闘態勢はとっておくというものです (たぶん)。

 

五稜郭入城の日に、すぐに新選組や遊撃隊、工兵隊が大野鎮撫に向ったと書きましたよね。

 (彰義隊は先鋒として昨日出陣)

渋谷さんも

貴方と先隊は已に茂辺地に出張せりと聞く

との情報をつかんでおります。

ちなみに「茂辺地」も「有川」も、現在の北斗市なので、地図で「北斗」と書かれるあの辺りと思って下さい。

で、渋谷さんたちは支度をして箱館を出て、有川村に着いたのが「第九時」。

さっそく「賊兵の動静を探索し」、先隊がすでに「泉沢へ進行」している事を知り、同志3人を密かに「尻内村」へ急報するように指示します。

そして自分は歳様の旅宿に赴くのですが、その面談の前に歳様の動きを。

 

一方、午前中に渋谷さんの出頭に立ち会った歳様ですが、そのまま松前攻略軍を率いての出陣となりました。

 

 

廿八日土方歳三総督として彰義隊、額兵隊、陸軍隊、砲兵〈大砲二門〉数人、守衛、新選組数人、合して五百余人を率て松前を襲ふ。

   (島田魁日記)

 

十月廿八日土方公等七百余の兵を引て松前方面え向ふ。有川村に一泊す。

   (中島登覚書)

 

十月廿八日、土方歳三を将として前軍、砲兵隊・工兵隊・彰義隊、後軍、陸軍隊・額兵隊・衝鋒隊なり。

教師仏国人「カヅヌーフ」「ブーヘイ」本営に付属し、総軍七百余人五稜郭より進軍し茂部地に至り宿陣す〈五稜郭より松前福山城まで二十五里なり〉。

   (説夢録)

 

 

このほかたくさんの史料に出陣のことが書かれます 筆

彰義隊は渋沢成一郎さん、額兵隊は星恂太郎さん、陸軍歩兵は春日左衛門さんが率いています。

守衛新選組」も、もちろん歳様のそばにいますよねっ 爆  笑

 

この松前攻略に関しては、先に捕虜とした藩士・桜井恕三郎さんを使者として送ったけれど、松前藩が彼を処断して戦意を現したから、という説があります。

 (「北洲新話」「函館戦記」「蝦夷錦」など)

実際に「説夢録」でも引用部分の前に、

降伏した藩士に書を託して帰したが返事がなく、さらに使者を送ったが、これを殺害したので… (意訳)

という文章があります。

ただ、この人が捕虜となった場所が特定できず、派遣したとしてもこの時点までに松前まで往復できたとは思えない事。

また菊池明氏によれば、この「桜井恕三郎」は、渋谷さんとともに行動していた「桜井長三郎」のことではないか、と。

もしそうであれば、彼はこの時には東京の藩邸にいた事。

さらに明治2年松前藩の「御進撃人数名前帳」に「恕三郎」の名前がある事。

 (「戦争御届書」には出戦記録のない「長三郎」の戦死が書かれているので、同一人物か?)

などから、

旧幕軍側が送った使者が殺されたから、松前攻撃軍を派遣した

というのはどうなのかはてなマーク

と疑問視する説もまたあります。

この事についてはまた後日書いてみますね。

 

そして歳様の夜を徹しての尋問?が、始まります。

申し訳ありませんが、長くなりましたので ➁ へ m(__)m