本日は板橋での、「近藤勇百五一回忌法要 新選組諸隊士供養祭」でしたね。
昨年は150回忌ということで行きました。
あれからもう1年なんですね。。。
そして今年は、 「よみうりカルチャー横浜」 にての権東品先生の公開講座のお手伝い。
「近藤勇の首級埋葬地へと誘う刀」と題し、勇さんの首級・会津埋葬説と祐芳のお話。
勇さんが流山での出頭時に持っていたのではないかと権先生推測の
池田屋事件の御褒美の容保公拝領 「陸奥大掾三善長道」 が展示され、またその押し型が抽選にて2名様に贈られました
来月から6回の定期講座も開かれます。
(その際も、関連刀の押し型プレゼントもあるみたい)
ご興味のございます方は、 こちらから
さて、本題 幕末です
150年前の本日は、慶応4年3月晦日(30日)。
この日、五兵衛新田の大久保隊は、総員213名
丗日
一、当人数
八十五人 滝
八十一人 寺
内廿人
十弐人
五人
八人
弐人
〆弐百十三人
(金子家文書)
今回はピッタリと213名
内20名は、母屋お座敷でしょうね。
あとは納屋とか玄関とか小姓の間、御次の間、そして馬屋
それにしても凄い人数
さらに、昨夜の記事でも書きましたように、大久保隊が流山への転陣を決するようになる出来事がありました。
それが本日、東山道総督府へ提出された、「歎願書」です
國事情態愚存御尋に付、左に奉申上候、今春以来、会津家に於、奉対朝廷大逆無道之儀仕、…(後略)
(東山道戦記)
持参したのは、宇都宮藩家老・懸勇記さん。
つまり、近頃桑名藩士や歩兵隊の抗戦派が集屯していたり、また結城城に彰義隊士が入ったり、会津藩士がうろついたりしている。
よって万が一の為に、新政府軍の援兵を願いたい、というもの。
(結城城は藩内が恭順派と抗戦派とに分離。藩主自らが彰義隊を率いて城を占領していたのです。
が、この後新政府軍に攻められ逃走。後に廃城となります)
これを受けて総督府では、早速に宇都宮方面へ斥候隊を派遣することに決めたのです
幹部は
大軍監 水戸藩 香川敬三
小軍艦 土佐藩 平川和太郎
斥候 長州藩 祖式金八郎
薩摩藩 有馬藤太
土佐藩 上田楠次 南部静太郎
この有馬さん、つい先日に東山道軍のもう一方の本陣である尾張藩邸にて、ピストルで遊んでいるうちに暴発
その問題が起因して、名誉挽回の意味もあってこの斥候隊へ配属されたとか
確か2年前の「三十一人会」の「江戸歴史散歩」の時、この「尾張藩邸跡」(現・自衛隊市谷駐屯地)の近くを通ったのです
(ちょっと遠かったので、写真はないのですが)
その時にあさくら先生が
「ここの尾張藩邸でね、有馬藤太が…」
と、そのエピソードを教えて下さいました
彼らが率いる、彦根藩・須坂藩・岩村田藩・岡田善長隊からなる200名の斥候隊の出発は明日(4月朔日)。
この報はすぐに大久保隊へも入ったと思われます
宇都宮目指しての斥候隊は、日光街道を通ります。
おそらく放った密偵から、この斥候隊は翌日には千住宿に到着するらしいとの情報を得たことでしょう。
五兵衛新田と千住宿はすぐ近く。
ここで甲州の二の舞を踏んではならなかったのです。
その難を避ける為に、幕府の許可を待たずに転陣を決意しました。
晦日
野分
一、 入 壱貫四百文 和三郎殿
廿九日 内四十一ヶ村飛脚賃立替 (中略)
一、壱分弐朱 き州ろうそく
つり四十入 壱箱
(金子家文書)
「野分」は、夜分の事と思われます。
前日に41ヶ村への飛脚を出した立て替え分を払ったという事。
もしかしたら、昨日の佐々井さんからの書状を読んで、万が一移転となった時の為に村々に連絡を入れていたのかもしれません。
荷物を運ぶだけでも大変な事ですからね
そして注目は、「紀州そうそく」の購入。
この使い道は。。。
続きは明日
2018年弥生22日 汐海 珠里