本日は、勇忌でしたね。
流山での法要でしたが、綾瀬と流山ってセットで思い出される場所。
現在その綾瀬・五兵衛新田の記事を書いているので、
胸が締め付けられる想いです・・・
という事で、その五兵衛新田に戻ります。
150年前の本日は、慶応4年3月16日。
この日金子家の大久保隊は総員115名となり、分宿させました。
※綾瀬での隊名なのですが、特に記したものもなく…
「新選組」というのも、ちと違う気がするので、大久保隊で m(__)m
十六日 百十五人
一、弐両 寺真木 廿わ
一、弐分ト壱貫文 同正油 壱樽
一、弐両 □二郎
(金子家文書)
またまた人数が増えていますねぇ
記述の中の「寺」というのは、金子家菩提寺の「観音寺」
「□二郎」は、後出の史料記載から、分家と思われる農家の「滝次郎」家を示しています。
観音寺 (レポは こちら☆ )
滝次郎家跡、と思われる場所 (レポは こちら☆ )
また、この日だろうと思われる編成表?があります。
覚
〆十四人
四番 柴岡様
〇 村上様
菊地様
〇 野村様
白戸様
市村様
(中略)
子供
三番 市村様
田村様
玉沖様
(中略)
合 百十三人
(金子家文書)
これは料紙の折紙形式で記されているものだそうです。
合計人数が113人ですが、「弐人殿様」との表記があり、この2人の「殿様」(勇さんと歳様ですね)を加えると、本日の人数115名になりますね
「市村様」が被っておりますが、辰之助さんと鉄君の兄弟です。
略していますが、「田村」兄弟の名もあります。
「子供」に書かれた玉置良三君、「玉沖」の表記から、「たまき」じゃなくて「たまおき」であることがわかりますよね。
この表を整理致しますと
☆「一番」の記載がないのですが、「殿様」の2人
それとも、一番は抜けちゃったのかしら
もしかしたら、総ちゃんの為の欠番
「新選組の一番は、総司が率いるに決まってる」って
☆「弐番」が、鍬ちゃん、安富さん、島田さんら5人。
それに、「歩兵残」と書かれた下に、「近藤」と「同姓」と書かれた人。
これは「近藤隼雄」さんと、「芳助」さんの事でしょう。
※「近藤さん」に関しては、書きたいこともあるのですが、長くなると思われますので、別記に致します m(__)m
☆「三番」が、子供たちの6人。
☆「四番」が、先に書いたように、利三郎さんとか辰兄さんとか14名。
☆「五番」は、別当7人・寺兵務75人・惣人数20人。
☆「六番」が、歩兵7人。
覚書の人数を単純に合計すると、「合百十三人」とはちと違ってしまうのですが、まだ編成中の為に「歩兵」等の人数等がダブったりしているからなのでしょう。
面白いのが、初めから鍬ちゃんまでは「様」付けなのですが、「安富」「横倉」「三井」「嶋田」「近藤」「同姓」には「様」付けがない
何故だ
あと、〇印は、リーダー格ってことなのかな。
なかなかに興味深い記録です
また他の覚書には、金立てと銭立ての購入物資等の支払い明細があって、これもまたとても面白いです
例えば、「鳥、弐わ」とか「大豆四斗」とか、「さげを」なんていうのもあったりね。
そしてこの購入品からの、ある説もあるのですが、それも別立てで書きたいと思います
そしてまた本日、旧幕府陸軍軍事方の松濤権之丞さんらが、金子家を訪れています。
大久保大和様
荒木沢右衛門
(中略)
舟掛分 松濤権兵衛(権之丞)
(同)
これはおそらく、勝沼のようが事が起こらない為。
この付近には主戦派の脱走兵等も多かったという事。
「船橋」、「松戸」、「流山」は代官支配地であり、多くの領民が幕府歩兵に徴発、または志願しました。
この地域は幕末には江戸商人たちが製造する酒、味噌等の製造所が置かれて富商も多く、徳川恩顧の思想が強かったのです。
こういう土壌が脱走歩兵の温床になっていました。
(あさくら先生著著より)
なので、こういう勢力と一緒になって反乱を起こさないよう、その防止の為と思われます。
恭順の姿勢を崩さないようにね。
この翌日には、やはり陸軍軍事方の吉沢大助さんも訪れています。
(17日には、人数は118名に)
たぶん、目的は松濤さんと一緒だと思われます。
新選組、よほど 「要注意 」 とされていたのでしょうね
2018年弥生8日 汐海 珠里