えっと、すみません。

今夜も引き続きの幕末ですが、盛りたくさんの為 

①~③ までございます。

たぶん5分から10分の間隔で (記事見直しする時間分) 更新いたしますので、宜しくお願い致します m(__)m

「でいっ!!」 って時にキレそうになりながら 笑 

頭抱えつつ書きましたので、皆さま読んで下さいませ アセアセ

 

さて、スタート 照れ

 

150年前の本日は、慶応4年3月2日

この日、鎮撫隊は日野の佐藤家にて休憩致しました お茶

 

 

二日 天気

一 右大久保・内藤、当宿通行、彦五郎方へ休、

   (佐藤彦五郎日記)

 

二日 (中略) 大久保剛<タケ>様甲州御城固めに通る、馬上二人〈一人剛さま近藤勇□□一人同門人石田歳蔵〉、右の人を日野農兵廿ニ人甲府迄送る

   (河野清助日記)

 

二日 天気

近藤勇、大久保剛改名。

土方年蔵、内藤隼人改名。甲府へ登る。

   (宇津木政兵衛日記)

 

 

河野さんは日野宿組頭、宇津木さんは日野宿千人同心です。

勇さんは「駕籠」というイメージでしょ?

けど、日野に行った時は「馬上」であったのですね 馬

歳様が、いまだ「石田歳蔵」とされている事に、ちょっと苦笑 爆  笑

 

農兵廿ニ人」は、彦さんの日記にその名前があります。

日野宿門人として、定次郎さん以下17名と、宿外門人の5名。

指令師として、隆之輔さん、才料(宰領)として彦さん、お供に清太さんを連れ、昼刻に出立したようです。

 

隆之輔(助)さんは、上佐藤家の人ですね。

彦さんの長男の源之助君と共に…

って、あれ? 源之助君は加わっていなかったの ?

 

なんか源君も「春日隊」に参加していたイメージじゃないですか。

けれど、違うようなんですね アセアセ

そして「春日隊」という名称。

これも当時の記述としては「日野隊」「日野兵」なんですよ。

けれど、源君が晩年にこう書いているのです 筆

 

 

三月朔、昌宜・義豊、甲陽鎮撫となり所部百余人を率いて江戸を発し、我郷に次る。子弟五十余人、将に援に赴んとして請うて止まず。

乃父、止むを得ず自ら之を率い、春日隊と名づけ、尾して勝沼に至る。

   (今昔備忘記)

 

 

この記述が、「聞きがき新選組」となると、もっと 「読み物風」 になっており、通説となっているイメージが出来上がっていますね。

すなわち血気盛んな若者が集まってきて、一緒に連れて行って下さいと言ってきかず、結局は「春日隊」を結成したとー

でもこれは前もって委任していた事でしたね ウインク

 

 

そしてこの時に、総ちゃんも一緒に来て、玄関式台で四股を踏んだというエピソードも書かれています。

せめて日野を出立した時は、皆に元気そうな顔を見せていたかったのでなないでしょうか ショボーン

 

 

歳様のエピソードとしては、のぶ姉さまに母衣の土産を置いて行ったというもの (しかも拝領品!!) ですが

皆さま、「ぼた餅」の話も聞いた事ありません ?

曰く、

この佐藤家での休息中に、歳様が平家へ祖母を訪ねて行ったところ
子供の頃好きだったぼた餅を作ってやると言われました 
おはぎ

 「忙しくて待てない」と断ると、「これから戦争に行くっていうのに、そんなにソワソワしていて勝てるか」と祖母は言い放ちます びっくり

そしてぼた餅が出来るまで歳様を待たせた、との事。

なんかとっても好きなエピソードラブラブ

ではありますが アセアセ

これは実際にはどうでしょうかねぇ キョロキョロ

おばあちゃんが、予めぼた餅を作ってきていて、それを食べさせたというのなら納得ですが。

 

心情的には、そのぼた餅、歳様に食べさせてあげたいっ !!

そして、一緒に沢庵も おねがい

 

 

という事で、佐藤家から移動します 馬

 ②へ m(__)m

 

☆土方の姉であり、佐藤彦五郎の妻は、この当時「とく」を名乗っていたと思われる(幼名らん)。
 しかにここでは一般的に知られる「のぶ」(改名時期は不明)を用いる。