いよいよ座談会レポも最後です
私からの最後の質問は、これ
珠 : こちら土方が編んだという「豊玉発句集」ですが、その中で私、
いつも不思議だったのですけれど、「豊」と書いたのと、「玉」と書いたのと、「豊玉」と書いたものがあるんですね。これは、何か意味があるんでしょうか?
サインというか、句の最後に書いてありますけれど。
その代表的な例として、パワーポイントに三句を並べてみました。
(二句目は故意に選んだんですけど )
因みに「豊」が二句、「豊玉」も二句。
残りの三十七句は、「玉」となっています。
谷 : あ~、そこまで考えたことないですね。 (笑)
ただ二番目の、「水の北 山の南や 春の月」って、これを山南敬助が死んだ時に書いたんじゃないかっていう人がおられたんです。
けれど、それは違うと思います。
理由としては、「豊玉発句集」じたいが京都に着いてすぐに日野に送っちゃっているんで、書ける段階ではなかった。 〈※〉
もうひとつ、これは日野の独特の考え方なんですが、どこの事を言っているのかなっていう事なんですよね。
「水の北」の「水」は多摩川の事で、日野は昔からそういう言い方をしています。
「山の南」の「山」は、富士山の事。日野には実を言うと、多摩丘陵があるだけで、南方面に山はないんです。
ですからこれ、明らかに日野で作られたものなんですよ。
で、まぁロマンを求める人は、「山の南」で山南敬助の切腹を惜しんでこれを作ったんじゃないかっていう人もいるんですけれども。
どうも日野っ子からみると、単純に日野の景色をうたってるだけだなと。
そうすると、「玉」って書いてあるのは、多摩地域の「玉」なのかなと。
珠 : あ~、成程ねぇ。 (爆笑)
それで「玉」なんですね ありがとうございます。
谷さま、ありがとうございます m(__)m
実はネタバラシを致しますと
何年か前の山南忌の懇親会の時、歳様と山南さん仲良し説(?)の根拠として挙げられるあの句を、
「あれは単純に日野の風景を詠んだだけだ」と呟いて(?)、顰蹙を買ったというような噂を、ちらりと小耳にはさんだものですから、そのお話を聴きたかったのです
いえ 「豊」と「玉」と「豊玉」の謎も、マジにお訊きしたかったのですけれどもね
が、しかし
一瞬 となった言葉が、ありましたでしょ
そそ。
※を付けたところ
私の認識では、あの発句集は「上京する際に、生家に置いて行った」というものでした。
だから当然「山の南」の句は、日野で作られたものとは思っていすが、ただ「春の月」が大好き(だろうと思われる)歳様が、誰が読んでも山南さんを連想させる「山の南」(それが単に多摩の景色を詠んだにしろ)と、くっつけるというのは、やはり彼とは良好な関係にあったのだろうなぁ と、そう思っていただけでした。
けど、発句集は京都から送ったもの
これね、その場では何も言いませんでした。
そして密かに、私の認識が違っていたのだろうかと、帰宅後に調べましたとも。
けど、ほぼすべての本が
「土方家の蔵から出てきたもので、歳三が京に上る際に生家に置いて行った」と書かれているではないですか
うん、これきっと、谷さまの言い間違えなんだろうな、とそう思いまして
後日ひとまずのテープ起こしの講演録を作成して「ちばい」へ
で、いくつかの疑問点を確認した時に、これもお訊きしました。
「え、だってそうだよ。あれ、歳三が京に行ってすぐくらいに、佐藤家に送って来たものだもん」
そ、そりゃね、私だって疑問でしたよ。
ほとんど佐藤家で過ごしていて、京都からの手紙や品物だって佐藤家に送ってて、二度の東下の時だって佐藤家の人たちとは会ってるけど生家には立ち寄った気配ないし。。。
なのになんで発句集だけ生家に置いてくる? って
「で、でも土方家の蔵から出てきたって…」
と再度お訊きしてみました。
「うん。結構早い段階で、『こんなもの送ってきたよ』って、佐藤家から土方家へ手渡したんだよ。それを蔵に入れていて、後に康さんが蔵から見つけたんだ」
そ、そうなんですか
えっと、長くなったので
そしてこの先も長くなりそうなので
②へ続きます m(__)m