以前から、ちょびっとだけ「刀」には興味(といえる程のものではありませんが)を持ち
実際、真剣が欲しくて小さいものを購入。
3年前の歳様の命日に、高幡不動の大日堂へ持ち込みまして、
歳様の位牌にお見せした
ー という事は、その頃からのアメンバーさまはご存知だと思います
ただ最近、というかここ半年くらい、刀とのご縁があり、調べもののお手伝い等していく中で、
一般に「定説」とされている事柄が、いったいどこから言われているものなのか
疑問に思ったり、その出所がはっきりしない事が多々あります。
先日4夜続けての勇さんの最期に纏わる刀のお話もそうですね。
できるだけ自分の力で探そうとするのですが
やはり研究家の先生方にお訊きしたりする事も多く、
ご迷惑をおかけしております m(__)m
その過程で、大正14年4月29日から讀賣新聞に連載されました
「流行児 近藤勇」の全15回分新聞コピーを、頂きました。
そう、あの「新選組始末記」を子母澤先生が書くきっかけになった記事
この頃新聞記者として執筆した子母澤先生。
この中で、
「京都の六角獄に収監されていた古高俊太郎や平野国臣は、鳥羽伏見戦争の勃発時に殺害された」
との旨を書いてしまいました
このミスを学術誌で皮肉たっぷりに批判され、痛恨の思いから
新選組研究に力を入れるようになったとか。
これがまた、よ~く読むと面白いのです
山南さんが、隊士なにがしの妻と密通したとかね
あ、そもそものきっかけは、勇さんが勝沼に持って行ったと言われる「宗貞」が
一般的には、老中・板倉周防守からの拝領とされているでしょ。
それって、どこからの出典
という疑問から。
新選組ファン初期の頃、むやみやたらと本を読み漁っていた頃の自分のメモにも、板倉さんからの拝領と書いているのですが、出典先が書いてないの。。。
そうしたら、この新聞連載には、「会津侯からの拝領」と、勇五郎さんが言ってたー
というような事が書かれているのですよ。
それが何故、板倉侯からに変わった
ご存知の方、教えて下さい m(__)m
もしかしたら、「聞がき~」かなぁと、今図書館にリクエストしているのですが
まだ手元に来ない
その他の内容については、また追々にご紹介したいと思います。
伊東成郎先生、ありがとうございましたっ m(__)m
2017年弥生9日 汐海 珠里