10月ですね。

今年もあと3か月。

早いです !!

さらに今月は予定が多々埋まってる 汗

楽しくもあり、喜びもあり、でもちと忙しいっ あせる

ブログ更新記録が、途切れる… かも !?

 

さてさて、昨日お約束の「同方會誌」 本

 


 

先日もご紹介しましたが

旧幕臣たちが集まっての会の会誌。

明治29年から昭和16年まで、長く続いたものです ニコニコ

内容的には、本当に多岐にわたっています。

体験談やら聞いたこと、小説、エッセイ、等々 にひひ

全10巻で、1号から65号までが収められています 本

もうね、読んでいると色々と魅力的というか、大変面白いのですが

その中で、「新選組」に関連するものをご紹介しますね 音譜


3巻 18回 (明治34年4月)

   近藤勇の逸事

 

池田屋事件のことと、その後に勇さんが

江戸なる友人島崎某の寄せたる手簡

というのが紹介されています ニコニコ

「新選の傑士」

慶應元年六月日」

等、少々?間違えはあるのですが(笑)

勇さんが使ったという虎徹のことが書かれています。

抜粋を、現代語訳しますと

 

自分が使った刀は、御承知のように新刀虎徹です。

激戦の際に折れてしまうのではと心配したが、折れるどころか、みごと15人の胴骨を料理して、

少しのたわみも無く、新刀の利は、古刀の及ばぬ所ありと思いました。

かつて軍書本や講義などにて、斬り合いのはげしい時は、刀はノコギリのようになると聞いていたが、

今回の働きにおいても、珍重の虎徹は、

惜しいかなボウシより鍔元まで、ノコギリのように欠損してしまった。
いづれ帰宅御目にかけます。

 (一部意訳)

 

ん?

折れずに、たわむこともなく、15人を斬ったけど

ボウシ部分から鍔元まではノコギリのようになったー

ということかな はてなマーク

有名な勇さんの「池田屋事件の報の手紙」とは

ちょびっとばかり内容が異なりますが

やっぱり使っていたのは「虎徹」でしょうかね  チョキ

 

7巻 42回 (大正5年6月)

   近藤勇の畧傅(りゃくでん)並に墳墓

 

武田さんという方が書いておられるのですが

勇さんの幕府に対する忠義を称えるとともに

その墳墓がひどい状況になっていると、画とともに書いています。

(画は、友人の石本画伯という方)

場所は

 

東京府下、北豊島群、瀧ノ川村、大字瀧ノ川二千三百七十一番地

 

となっているので、現在の板橋の慰霊碑のことですね。

勇さんは読書が好きで三国志などは暗記していた

というようなことから、ずっと生い立ちや功績が書かれています。

一ちゃんが江戸から参加した

ということくらいの誤りはあるものの、かなりきちんと書かれています。

鳥羽伏見のあと、品川の釜屋という旅宿に泊まった事も書いてあります。

でも、鎮撫隊として行ったときに

府中宿なる土方の兄、土方良順方を宿とした、という記述もありますが…

また勝沼での戦いの時は

勇さんは「二尺八寸宗貞の銘刀」をもっていたとの記述。

 

そして、勇さんは 。。。

 

流山で捉えられて、香川敬三さんの前に引き出されました。

香川さんは勇さんの武勇を惜しみ

「総督府にはよいようにとりなすから、官軍に降伏して、この後の働きで罪を償え」

と言いました。

するとそれまで一言も文句を言わなかった勇さんは

「官軍とはそもそも朝廷の兵か、薩長の兵か、拙者には一向にわからず。

錦旗の蔭に隠れて、私利を貪る薩長の奴ばらには、物を言うも汚れになる。

もう多言せられな。速やかに首を刎ねられよ」

と言い放って、口を閉じたー

 

最後には高幡不動の碑文を全文載せて

計11ページにもわたる長文を書いております。

勇さんの「言葉」は

「近藤勇の言葉」として、旧幕臣たちが、本当は声を大にして

言いたかった言葉なのかもしれませんね。

板橋の慰霊碑が

ここに書かれているように、本当にひどい状況から

今はお花が絶えないような、綺麗な状態を保つことができるようになったのも

こういう方々のお蔭なのですよね。

 

すみません あせる

1回で終わらせるつもりだったのですが、

また明日に続きにさせて下さいね ニコニコ

 

 

   2016年建亥月(けんがいげつ)朔日  汐海 珠里