幕末です
150年前の本日は、慶応2年3月11日。
この日ー ではなく、この頃
大石鍬次郎さんが、歳様の書簡と刀を持って
江戸に下ったのだろうと思われます
鍬ちゃんの東下は、
無論先日の弟の死によっての家督相続の件。
歳様は鍬ちゃんが相続するのが順当と考えておられ
その話し合いの為に、江戸に帰したようです。
実は歳様のお手紙は、差出人、宛名、日付が欠損している状態。
なので正確なことはわかりませんが、筆跡や内容などから
歳様が彦五郎さん宛てに書いたものと思われます
またこの時、彦五郎さんに、刀を一腰渡しております
鍬ちゃんの出立日についてですが
これがちと微妙なところ…
歳様のお手紙の内容は後記いたしますが
それによると、勇さんが帰ってくる「前」のことと思われます。
んで、勇さんが屯所に戻るのは、先日もちらっと書きましたが
3月12日ー つまり150年前の明日。
ということは遅くても今日かなぁと思うでしょ
でもね、鍬ちゃんが東海道の赤坂宿を通過したのが
3月23日、らしい
二十三日 上天 (中略)
新撰組、大石鍬次郎下り。
(村田五郎左衛門日記)
赤坂宿というのは、現在の愛知県豊川市。
京都から四十九里だといいます。
一日に約十里を歩くとすれば、3月18~19日頃の出立
ね? 計算がちょびっと合わないっしょ??
赤坂宿の記録が間違っているのか?
どこかで何かの事情で5日間くらい足止め?
それとも鍬ちゃん、遊んでた?(笑)
赤坂宿は、御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていて
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」
と言われた程だったとか。
悩むところです
ただ3月29日に江戸に着いて
4月1日に、彦五郎さんのところに
顔を見せたのは間違いないようです
これも後記しますが、
彦五郎さんの日記に認められています
余談ですが、この時に刀の代金も払ってるww
普通に歩けば、東海道を通って江戸までだと13~15日。
鍬ちゃん、健脚そうだし
途中早駕籠使ったりすればもっと早い
あと考えられるとすると
歳様のお手紙は鍬ちゃんに託したわけではなく
先に出していた のかもしれませんね
刀だけ鍬ちゃんに預けて…
うん。
やはり局長の帰りを待ってから、東下させた
という方がすっきりしますかね。
皆さまは、どう思われますか
小生さし○〇の刀壱腰お送り申上げます。
壱刀あれば、まにあいます。
被ノ (日野)
佐藤彦 (以下破損)
お元気のことと、お喜び申し上げます。
二に当方無事。安心なさってください。
のぶれば、この度大石鍬次郎東下させたのは、
右鍬次郎弟酒造氏、当地において病死しましたことに他なりません。
これにより橋家等と、大石家相立つる者は鍬次郎しかなく
右に付きひとまず帰府致させ、親類とも至急相談事もあり
東下している間は、四、五日江戸にいます。
一 近藤はまだ帰京しておらず、防長一件はまだわかりません。
もっとも京の地は至って静かです。
まずは、右申上げます。
恐々不備。
(名前はママ、下手な意訳です)
一、朔日、京都新選組大石鍬次郎供一人召し連れ、江戸より来たり泊まり、三日に江戸へ罷り出候。
右は同人弟一橋様御家(来)にて、京都にあい勤め罷りあり候ところ、不慮にあい果て候に付き、家督取り扱いの相談にまかり下り、去る月二十九日江戸着の趣。
かつ歳三より刀一腰差し下し候間、右代金として拾五両鍬次郎へあい届け遣わし候。
(佐藤彦五郎日記)
この刀は、歳様が使っていたものなのでしょうか。
それとも彦さんが歳様に依頼したものだったもの?
刀銘が記されていないのですが
15両といったら、安くはないですよね?
彦さんははじめから15両のくらいの刀を依頼していたのか
歳様の刀がその位の価値だと判断したのか…
可愛い義弟に多めにあげていたのかもしれません。
ん~、いろいろ考えると、面白いですよね
その刀はなんなのかなぁ…
興味は尽きません
2016年乏月(ぼうげつ)25日 汐海 珠里
※ 勇さんの帰京は、まだ先であることが判明。
訂正記事は こちら☆
※ 2022年1月25日、佐藤彦五郎新選組資料館にて書簡実物拝見。
(これまでは書籍掲載写真による)
冒頭の判読不明文字等を実際に見てみると
「小生さし料被遣之向壱腰…」のようにも読める(友人K氏協力)が…?
なお、文中の「被ノ」は「日ノ」ではないかと思われる。