今日は久々にいい天気
出勤前の慌ただしい時間に、バタバタとお洗濯。
お日さまの光でパリッと乾くと、やっぱり気持ち良いです
(花粉症の方、ごめんなさい m(_ _ )m )
では、昨日の続きです
(以後、スマホ写真になります )
開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をお祀りしているお堂です。
天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、
一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきました。
初建は正保元年(1644)ですが、現在のお堂は平成五年に再建されたものです。
寛永寺HPより
ここの中を通ったと、思う
すみません、記憶が曖昧で・・・
ただ今回調べたら、
本堂前に青銅灯龍があり、これは大猷院(徳川家光)霊廟前に
徳川御三家が奉献したものだそうです。
製作年月の銘はないのですが、慶安年間の製作と思われるとの事。
また、鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651)鋳師長谷川舎吉(いえよし)の銘があるそうです。
がっ
そんな事はまったく知らなかった私。。。
写真の一枚も撮って来なかった。。。
で、目に付いて撮ったのは、これ。
この門は明治の文豪幸田露伴(1867~1949)の旧宅の門で、谷中にあったものを移築したものである。
瓦葺の簡素な腕木門で、柱と梁、垂木など総て丸太造で、明治期のしもた(仕舞屋)の風情をよくとどめている。
露伴は下谷生まれで、代表作『五重塔』(1893)の主人公『のっそり十兵衛』は、現寛永寺根本中堂を手がたけた大工の棟梁をモデルにしたものだといわれている。
協賛 池田建設株式会社
案内板より
そして目的の・・・
これ、内側からなんです。
外で出て、表側から…
天気が良すぎて逆光になり、上手く写せない
手前の案内板は、黒門の説明をしています。
ただ、気になったのが後ろの塔。
「輪王寺門跡」
すみません。
私、本当にお寺関係が無知で、この写真を見た時に
「輪王寺」というお寺の「門」があった「跡」なのかと…
で、ちょっと調べました。
ご存知の方は、以下スルーして下さいっ m(_ _ )m
知らないのは私だけなのかなぁ…
そもそもの「輪王寺」。
これは、先ほどの「両大師」と呼ばれる「開山堂」のことです。
この辺がちょっとややこしいのですが、江戸時代ではなく明治になってからの呼称です。
江戸時代前期の承応3年(1654年)。
後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺の第3代貫主となり、日光山主を兼任しました。
翌年の明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなりました。
明暦2年、守澄法親王に対し、「輪王寺宮」の称号が勅賜されたそうです。
つまり、上野「寛永寺」と、日光「満願寺」の、両山の山主が「輪王寺宮」であったという事です。
でも戊辰戦争後、輪王寺宮、十五世公現法親王が還俗されたため、輪王寺の称号は一時中絶。
これを惜しんだ、東叡、日光両山からの要請により、
明治16年(1883)に、この両山に「輪王寺」という名の寺が再興され
二年後には門跡寺院としての再興を許された。
ということなんです。
で、「門跡」。
これは「門」の「跡」ではなく 「もんせき」または「もんぜき」。
皇族・貴族が、住職を務める特定の寺院のことなんだそうです
という事で、「黒門」の写真は②へ m(_ _ )m