元治元年6月5日(1864年7月8日) 池田屋事件
翌朝
引き揚げは、翌朝四つ近かった。
池田屋屋内の徹底的な探索や、市中残存の浪士の掃討に時間を費やしのだ。
「総司、大丈夫か? 帰陣するぞ」
倒れたあとに三条会所に運ばれていた総司を、歳三が迎えに行く。
「大丈夫です。それより情けないなぁ。何の手伝いもできず、こうして臥せっていた」
まだ熱っぽいのか、上気した顔を上げて総司が呟く。
「いや。お前は一番に斬り込んだ。一番手柄だ。胸を張って帰ろう」
「味方の、新選組の被害は? 勇先生はご無事ですか?」
「心配するな。掠り傷ひとつも負ってない。ただ平助が眉間を割られた。あの馬鹿、暑さに耐えかね敵の姿が視界から消えたと油断して、鉢がねを外したらしい。そこを潜んでいた賊に打ち込まれた。だが、奴さんも逃げ腰だったんだろう。深い傷じゃねぇ」
「良かった。命に別状はないのですね?」
「ああ。新八が助けたようだ。もっとも新八自身も親指の付け根を切られた。人に言われるまで気がつかなかった、というのが新八らしいがな」
「じゃ、死人(しびと)はいなかったのですね?」
「いや、奥沢が即死した。それと安藤、新田が重傷だ」
「そうですか… 裏手に回った三人ですね」
「俺のせいだ。新選組の、近藤勇の、名を挙げることばかり考えていた」
歳三は苦しげに唇を噛む。
「歳さん」
その時、後ろから声をかけ、歳三の肩に手を置いた者がいた。
「屯所に帰るよ。奥沢は立派に戦って死んだんだ。歳さんがそんな顔してちゃ浮かばれない」
「源さん…」
「さあ、凱旋だ。先頭は局長。二番手は歳さんと総司だ。歩けるな、総司?」
「はい」
総司が立ち上がる。
「ああ、そうだ。これを」
歳三は総司の肩にふわりと麻の羽織りを引っ掛けた。
「これは…」
「山南さんのだ。さっき丞が届けてくれた。やつが預かっていたらしい」
「山崎さんは?」
「お前を介抱して、先に安藤・新田とともに屯所に帰った。自分は参戦してないからと」
「さあ、皆待ってるぞ」
源三郎の言葉に、二人は立ち上がった。
壬生村までの沿道には多くの市民が集まっていた。
その中を勇が粛々と歩く。
胸中には畏敬している赤穂浪士の、吉良邸引き揚げの様子が思い描かれていた。
続いて歳三が、肩に段だらの染めの羽織を羽織った総司支えながら歩く。
新八は全身に返り血を浴び、左手に血の滲んだ布を撒いていた。
平助は釣り台に仰臥していた。
刀身が曲がってしまい鞘に入らずに抜身のままの刀を下げている者、穂先だけの槍を持っている者など、壮絶な戦いの後の疲労感を滲ませてはいたが、どの顔も誇らしげに、真直ぐと前を向いていた。
2014年文月8日 汐海 珠里
☆池田屋事件参照 「近世紀聞」「会津藩庁記録」「紀聞集」「甲子雑録」「改訂肥後藩国事史料」「近藤勇」「元治新聞集」「浪士文久報告記事」「維新前後之雑記」「加賀藩史料」「京都守護職始末」「幕末風聞書留」「時勢叢談」「莠草年録」「乃美織江覚え書」「聞集録」「近藤勇書簡」「孝明天皇紀」「新撰組始末記」「島田魁日記」「七ヶ所手負場所顕ス」「殉難十六志士略伝」「木戸孝允文書」等による。
なお、古高俊太郎拷問場所として「前川家の土蔵」であったという記録はない。(伝聞か)また「土方」による拷問や沖田の「持病による喀血」なども後世の創作?(永倉手記などにも一部書かれるが、記者の手が入ったり晩年の回想になる)
☆池田屋の中にいたのは、桂小五郎・望月亀弥太・石川潤次郎・藤崎八郎・野老山吾吉郎・西川耕蔵・大沢逸平(和田義亮)・宮部春蔵・淵上郁太郎・大高又次郎・北添佶摩・宮部鼎蔵?・吉田稔麿?あたりか?
桂は「乃美織江手記」より池田屋内部にいたと思われる。また吉田稔麿は池田屋から一度長州藩邸に戻った?(襲撃前か、襲撃時か?)
☆宮内庁所蔵「維新階梯雑誌」に、近藤は池田屋内へ「御上意と大音声ニ踏込」と書かれる。また永倉新八が刀を折った状況も書かれている。
☆古高の自白である「新撰組ゟ差出候書付写」は、6/7付の横山主税ら7名宛 西郷文吾ら書簡には古高に関する情報が曖昧なこと、具体的計画情報が書かれていないこと、それなのに6/9付の松平春嶽宛一橋慶喜書状には、御所焼討計画が古高が白状したとして書かれることから、池田屋襲撃を「正当化」するた尊攘録 探索書めに9日あたりに作成した一橋や会津の「捏造」ではないかとの見解がある。(6/8付近藤書簡にも、古高の自白とは書かれていない)
しかし古高捕縛直後に会津藩から慶喜に宛てたと思われる書付(杉浦梅潭目付日記)から、やはり「新撰組ゟ差出候書付写」は池田屋襲撃前に古高が自白したと判断できるのではないか?(中村武生著「池田屋事件の研究」より)
また「川村恵十郎日記」の記述により、明らかに池田屋襲撃前に古高が「自白」したと、会津藩から一橋家に報告があったことがわかる。(24年7月三十一人主催、藤田英昭講座レジュメによる川村恵十郎日記)
ただ内容的に「新撰組ゟ…」は全部が当日の自白とも思えない部分や、もともと会津藩などが、近日中の浪士捕縛の予定があった(尊攘録 探索書など)ことや、市中や御所への放火・天皇動座などの噂(続再夢紀事・木戸孝允文書・忠義公史料など)などから、会津藩はそれらの事も加味して慶喜へ報告したとも思える。