薩摩入り4日目です。

先日の日曜に義父の17回忌があったのですが、祥月命日は今日29日。

義母と十歳違った明治生まれの義父は、寡黙な方でした。

住まいが遠いので一年に一度くらいしかお会いしていませんでしたが、存命であった頃に、私が今のように歴史に興味があったなら、もっといろんなお話ができたのかもしれません。

ん? 待てよ。。。

そしたらそもそも薩摩の人と結婚したかぁ はてなマーク

 

閑話休題。

久しぶり、150年前の出来事になります クラッカー

150年前の本日は、元治元年3月24日

勇さんは小島鹿之助さんと、橋本道助さんに宛ててお手紙を書いております メモ 

そう。つい先日行った小野路宿の小島家と橋本家ですね ニコニコ

実はこの書簡、小島資料館にあるのです。

だって写しが売っているはずなんですもの 目

残念ながら展示はされていませんでしたが、できれば館長にお伺いしたかったのも、この書状のことでした あせる

 

また、日にちは確定できていない(3月中)のですが、長州人医師倅某が新選組に捕縛されています。

ただしその後どうなったかは書かれていません。

 

 

「勇さん、まだ起きていたのか?」

局長室の前を通りかかった歳三が、灯りが漏れているのに声をかける。

「歳か、入れよ」

勇の柔らかい声に、歳三は入室し微笑んだ。

「鹿之助さんにか?」

机上の書状を目で示して、言う。

「ああ。まぁ近況の報告をな。お前こそ、こんなに遅くまで隊務か?」

「まぁな。捕縛した長州人を尋問していた」

ふぅっと勇が息を吐く。

「長州藩のやつらは京を追われたはずなのに、しだいに潜伏している人数が増えているようだな」

「ああ。水戸藩士らと一緒に江戸から来たらしい。攘夷だのと言っているが、結局のところ幕府の転覆を狙っているんだろ」

「春嶽公が守護職の辞任を正式に願いでたようだ。天子様はやはり容保様の守護職をお望みなのだろう」

「そうなると、俺らもまた市中見廻りか?」

「尊王攘夷の気持ちは一緒なのにな」

「もし天子様と大樹様のお志が違ってしまったら、俺らは…」

歳三の目をすっと流れた。

「そうだ、歳。あの布田の道を覚えているか?」

そんな空気を払うように、勇が声を張った。

「鹿之助さんの処へ行く道か?」

「ああ。よく通ったなぁ」

「総司などは馬でも走ったぞ」

総司が麻疹に罹って、馬で送られたことを言う。

「お前なんか沢庵担いで歩いただろうが」

勇が破顔する。

「あれは旨いって。かっちゃんに喰わしてやろうと思って持っていったんだぞ」

「そのわりには、半分以上お前が喰ったんだろうが」

「試衛館にゃ、ろくな菜がなかったからな」

「お、ツネが聞いたら頭からツノ出すぞ」

「こうか?」

ひょいっと両手の一指指を立てて、自分の頭に乗せる。

ぷっと勇が噴出して、ひとしきり笑った。

「懐かしいな」

歳三がぽつりと呟く。

「まだ一年しか経ってないさ」

勇が言う。

「にしちゃ、当年中に一度帰りてぇって書いてあるじゃねぇか」

歳三がひょいと書状を覗き込んで言った。

「あ、ばか。見るな!」

「いーじゃねぇかよぉ」

「もういいから、さっさと寝ろっ! 明日の朝も早いんだろうがっ!」

「はいはい。局長も早くお休み下さいよ」

笑いながら歳三が腰を上げた。

部屋を出ようとして、ひょいっと振り返る。

「もしそれができそうなら、山南さんも一緒に連れてってやってくれ。やつは事の他、あの道が好きだったようだ」

勇がふっと真顔となる。

「ああ、そうしよう」

その時はまだ、二か月余りの後に新選組の運命を定める事件が起ころうとは、思ってもいなかった。

 

   2014年卯月29日  汐海 珠里

 

☆長州人医師の息子捕縛云々は「酒泉直滞京日記」より

 なお文中の「餘六麿公子」は「餘八麿公子(昭武)」の誤りではないかと思うが?

 また「筑波の企てありて」と書かれたように、天狗党が筑波挙兵したのは27日のこととなる。

慶応元年(推定)9月25日付け近藤・土方宛 佐藤彦五郎書状には、新選組に関する悪評の風聞を聞き、戒める例として「天狗党が初めは民を大切にし、礼を失うことなかったために官軍も容易に征伐できなかった。しかし末には追々烏合の衆となり、耕雲斎らの意趣に寄らず、言語道断の行いをしたので有志の者たちも賊と化し、汚名を千歳に残すことになった」(意訳)ということが書かれている。

 

※ 小島・橋本宛書状は、前日に届いた手紙に対する返信。

またこの前日には、幕府より市中昼夜の巡邏を、守護職・町奉行所・新選組に命じている。これは2/10に京都市中の警守を幕府専管とする旨の命を受けてのことか?

 

嚮東山謝霊公所業 誠ニ以羨所 乍去国家緩急軽重有り

      不顧失敬本文之通り申述候 必ス不悪思召被申之間敷候

旧臘御投恵相成御書翰 当月廿三日京着 拝見致候  弥以御賢勝奉欣喜候  随而当方無異ニ在勤罷在候  御眷念被下間敷候  従是ハ爾来御疎闊ニ相過 多罪之到御海恕被下度 且亦毎度貴兄之御教諭 先賢古轍踏之御議論撤肝膽拝承仕候  然ルニ僕平素与里威名轟キ候耳の宿願ニ無之 草莽之中より報国之大義ヲ唱ひ 今既ニ国家大患ニ到内ニ者 国是一定 衆議合論場合不到 往々天下人心痛怨 離叛之姿成行 臨機併呑之志シヲ生シ 貧民ハ不堪命苦情与里 終ニ犯シ国禁 外ニハ蛮夷覬覦之大憂受ケ 内外国難一時指迫リ 僕一身之去就ヲ計る之場合ニ有らん哉 唯区々微衷尽シ而已 乍去御採用等ニ成と不成とハ 上ニ在り羈旅臣計る所ニあらつ 是赤心抱て斃休他の心事更ニなし 

仮令微臣之誠忠聊も不相達 悉ク水泡画餅と成行候も難被計 且世態変遷不得止事  乍併為臣之分尽シ候上者 聊千載遺憾無之 将亦頻年日顧煩義 老父尤事件出来候節ハ 大小軽重緩急ハ胸中ニ見計可申 乍然情不忍 亦他之議論如何と心配罷在候  先者予メ僕真情 乱筆相認宜 御賢察奉仰望候  餘ハ讓後便 万縷可申上候  匆々不一

三月廿四日 燈火下認メ           

                                                                      近藤勇 拝酬

   児島雅兄

   橋本雅契

尚々御一門江宜敷御鳳声相願候  僕も御用隙相窺ル当年ハ一ト先東帰致度心懸ケ居候  且亦当春与里天下計る御内密御委任ヲ受ケ 漸策略中道ニ到り候  尤遂成功縷々可申上候  必ス御他御無用 委詳ハ密事難申義 よろしく御察被成下度  以上