150年前の本日、元治元年2月20日 です
そう、年号が変わったのですね
読み方は「げんじ」
時々TVのナレーションなどで「がんじ」と読まれたり( 私もはじめはそう思った(>_<) )していますが
げんじが正しいです
平安時代以降、江戸時代まではよく「改元」しています。
もっとも慶応4年9月に「明治」となった時に、はじめて一世一元の詔が出され、天皇在位中に改元は行わないものとなったのですね
ちなみにこの時、「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあります。
つまり改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。
すなわち法的には、慶応4年1月1日から明治元年となっているのですね
ま、それはもう少し後のお話。
今は「元治元年」のことです
ちょっと小難しい話になりますので、ここは敬助さんに解説してもらいましょうか
「新しい年号、元治になりましたねぇ…」
お茶をすすりながら、総司がしみじみといった口調で言う。
「周易の『乾元用九、天下治也』からか、もしくは三国志の『天地以四時成功、元首以輔弼興治』からといったところでしょうか」
目を細めながら、敬助が微笑む。
「ぐっ!」
左之助がお茶でむせた。
「何やってんだ、お前」
隣で新八が左之助の背をさすった。
「だってよう、そんなんサラっと言うなよなぁ。わけわかんねぇ。そもそも周易って何だ?」
「簡単に言うと易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術です」
「はぁ」
「今年は讖緯(しんい)説による甲子革令の年になりますからね、改元となります」
「??」
「簡単に言うと、甲子の年は変乱の多い年とされているので、それを防ぐという事です」
「たしか万延から文久になった時もそんなような事言ってなかったか?」
「あの年は辛酉の年でした。辛酉は天命 が改まる年とされ、王朝 が交代する革命 の年と言われています。つまり、政治的変革が起るのを防ぐという事です」
「じゃ、万延に改元された時にはその翌年に再び改元するってわかってて、したのか?」
「ええ、そうですね。あの年は江戸のお城の火災やら井伊大老の暗殺などがありましたから、不安にお思いになられた帝の、たってのご希望だったとか」
明里が運んできた薬湯に、敬助がありがとう、とにっこり笑う。
「文久というのは、万延と決められた時に、最終候補に残った年号だったのですよ」
「ふ~ん」
いくつもの、感心したような目が敬助を見つめる。
「今回帝は『令徳』をご希望であられたのですが、一橋(慶喜)公が強く反対なさり、春嶽様が後押しして、最後は大樹様がお決めになられたと聞きました」
「我が国の元号では、確か『令』という字は使用されていませんからね」
「他には、寧治、大応、政化、文寛、天静が残っていたそうです」
「なるほど」
敬助と一の会話を、他の人は黙って聞くだけである。
「改元の儀の際、容保様と所司代の稲葉(正邦)様たちが招かれるそうです」
「それはそれは。きっと良い年となりましょう」
敬助が皆の顔を見廻した。
「ところで」
「ん?」
「皆さんお揃いで大津(こんなところ)に来ていて良いのですか?」
皆が顔を見合わせる。
「私は非番ですからね」
総司がすまして言う。
「だってよ、春嶽公の下でなぞ、働く気なんておこるかよ!」
左之助の言葉に新八と平助が頷く。
「ちゃんと代理をたててきたさ。鬼副長だって文句はあるめぇ」
新八がそっぽを向いた。
「私はどうかと思ったのんですけど… でも井上さんが代わってやるから山南さんのお顔を見てこいって」
ちょっと涙声になって平助が呟く。
で? というように、皆の視線が一に集まった。
「……」
しばらくためらって後、一がぼそりと声を出す。
「土方副長が、『やつらの様子をつぶさに監察・報告しろっ』 との御命令で…」
「えぇ~!!」
「それ、早く言えよぉ」
その頃壬生の屯所では、歳三が鬼の形相で書状を認めていた。
「くっそ! 元治でも何でもいいや。さっさと容保様の配下に戻しやがれ!」
2014年弥生27日 汐海 珠里
☆ 文久四年ハ甲子ニ相當ルを以、從古例、當年ハ年号改元ノある年ナリ。(中略) 慶喜公も御出有之、イヤナ年号ダト被申候故、小生ハどんな年号尓て候哉といふ、老中某ハ、卽從關白殿御相談の書付是也と見せられたり。慶永見ると、奉書二ツ折尓書てあり、令徳・元治ノ二ツナリ。令徳ノ方ニ●印付て、於 御所は令徳ノ方宜クと有之候。老中大目付目付打寄話尓、令徳ハ德川に令スルノ意味なるへし、御所で政権を持つ存しか杯と悪口話アリ。元治ハ元ニテ治ルノ意尓して、王代ニナサントノ意味之。余笑フテ云く、此天下の政権といふは、德川氏尓非す御所ニあり。德川ハ所謂幕府尓して、覇府ナリ。天子、政事を德川尓委託せらるゝ也。令徳川ハあたり前なり。王代に復スルハ日本ノ光暉也といへは、老中いやな顔をして黙座して俗尓云ニガ笑をナセリ。予改めて(中略) 兩三日立テ、從関白被為召候ニ付罷出候處、例ノ年号ノ儀ハ、段々致評議候處、令ノ字成る程年号字ニ無之候故、矢張元治ト改元尓御内々御確定相成候間、只今徳川大樹へ相談中故、從大樹兩様の内元治の方可然と御答有之候致度大樹公へ申入相成候様ニとの事ニ付、(中略)當時の景況ハ僅々たる事といへ𪜈、實尓今尓て考フレハ、小兒爭ひの如し。是元治改元ノ所以ナリ。 (逸事史補)
☆ 年號改元ハ、禁廷より文章博士ニ撰定を命せられ、五六ツ斗撰定の年號を差出す、(中略) 元治改元の節ハ御上洛中なり、御内意なれ共今般ハ御所御定め相成候。令徳・元治の兩名の内、令徳のかた可然と被思召候、大樹所存可承との勅諚のよし、御老中方も夫てよかろう位也。我ハ御役務めハせされ共、其比ハ御用部屋へも勝手次第參りたり。此時御用部屋尓て内々拝見せり。我いふ尓ハ、令徳の文字不穏のみならず、昔より年號の文字ハ大概極りたるもの也。徳ハ年號の文字なれとも、令の字ハ未た見當り不申、殊に德川に令するといふ意味もあり、夫よりは元治のかた穏なりと申上たれハ、(中略) はたして元治のかたニ御内定相成候段、返答あり。老中方へも其段申入たり。當時の有様此一班をみてもしるへし。 (閑窓秉筆)