クロアチアの首都 ザグレブに次ぐ第2の都市 スプリットは、古代ローマ皇帝 ディオクレティアヌスが退位したあと、余生を過ごすために作らせた宮殿がそのまま街として残っている。
言い換えれば街自体が宮殿になっている。って、意味は同じやん (笑)!遺跡として残っているデカい宮殿は風格あり、ディオクレティアヌス帝ご自慢の街となっている。

"Split スプリット" はクロアチア語で、イタリア語の地名は "Spalato スパーラト"。もちろん、通訳のお仕事はイタリア語で通じる。楽ちんな街!

貧しい農家出身だったディオクレティアヌスは、244年にスプリットの隣町 サロナで生まれた。軍隊で頭角を現し40歳でローマ皇帝の座についた。
弱体化しつつあったローマ帝国を立て直すために、税制改革に着手し広大なローマ帝国を統一するため、腹心の部下 マクシミアヌスを共同皇帝にした。

マクシミアヌスを正帝として「西方」であったイタリアと北アフリカを任せ、副帝にコンスタンティウス・クロルス (後のコンスタンティヌス1世の父親) を選定し、フランス、スペイン、イギリスを担当させた。

ローマ皇帝 ディオクレティアヌス自身は「東方」のトルコ、シリア、エジプトを統治し、副帝にガレリウスを抜擢、旧ユーゴスラビアであったドナウ・バルカン半島とギリシャを託した。
この政策が "Tetrarchia テトラルキア 四分割統治" と呼ばれ、良い成果をもたらした。

ディオクレティアヌス帝はローマだけでなく、ニコメディア (現 トルコのイズミット) にも住居を構え、ローマ帝国全体の最高権威者として君臨した。
皇帝権とローマ帝国の防衛を強化するため、課税強化を図り官僚制を整備した。ディオクレティアヌス帝が実施した軍政と民政分離は、東ローマ (ビザンチン) 帝国にも受け継がれた。


ディオクレティアヌス帝が退位したあと、四分割統治は崩れ、皇帝同士が権力争いを繰り返した。
結果、ローマ帝国は再び混乱、内紛を制したコンスタンティヌス1世が、帝国の首都をローマからコンスタンチノープル (現 トルコのイスタンブール) へ遷都した。ディオクレティアヌス帝の死後から15年後のことだった。

ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国皇帝のなかで初めて自らの意思で退位した最初の皇帝である。 
59歳で突然、引退を宣言して、終の棲家としての宮殿をスプリットに建てた。アドリア海に面した穏やかな気候のスプリットは、隠居生活を送るのにとても適していた。
ディオクレティアヌス帝は、66歳で他界するまでの7年間をこの宮殿で過ごした。

ディオクレティアヌス帝は303年にキリスト教弾圧の勅令を出し、多くのカソリック教徒たちを迫害した最後のローマ皇帝だった。






ディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられた八角形の建物は、8世紀に大聖堂へと造り替えられた。
サロナの初代司教で殉教者でもあった、聖ドムニウスに捧げられた大聖堂になった。

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