聖ヨハネ (マルタ) 騎士団は、テンプル騎士団やドイツ (チュートン) 騎士団とならぶ世界三大騎士修道会の一つであった。
中世ローマンカソリックの修道会であり、イスラム勢力から聖地エルサレムの防衛とキリスト教徒の護衛を目的とした組織であった。

聖ヨハネ騎士団は、オスマン帝国スレイマン大帝との戦いに敗れロードス島から追われたが、神聖ローマ帝国皇帝カール5世からマルタ島を授けられた。
ヨーロッパ各国の王様たちも十字軍遠征以来、常にキリスト教徒の盾となり、イスラム教徒と戦ってきた聖ヨハネ騎士団への援助を惜しまなかった。
聖ヨハネ騎士団はマルタの古都イムディーナに落ち着いたあと、スリーシティーズの一つ、ヴィットリオーザに本拠地を構えた。

マルタ十字の8つの先端は忠誠・寛容・勇気・敬虔・保護・敬意・超克・名誉をあらわす。
カソリックにおいてドクロ (スカル) は魔除けの役割を果たす縁起物。





今なお、スレイマン大帝率いるトルコ軍隊は、聖ヨハネ騎士団を撲滅することを忘れていなかった。
マルタを制圧して南ヨーロッパの侵略拠点とすることを目論んでいたのだった。1565年、トルコから200隻の大船団がマルサシュロック湾に侵入して、約4万人のトルコ軍隊がマルタに上陸、陸と海から騎士団の本拠地を包囲した。

聖ヨハネ騎士団の精鋭部隊は騎士と従者あわせて550人、スペインからの援軍が2千人、地元マルタの民兵6千人、合計8,550人という劣勢であった。この状況で戦ったマルタ側は多くの死者や負傷者をだした。
オスマン帝国トルコ軍隊は、約5カ月間、猛攻撃を続けたが、シチリアから命知らずの武勇士たち1万人が援軍として駆けつけ、ついにトルコ軍隊は包囲を解除した。この戦いはイスラム教徒からカソリック教徒の砦を守った聖戦として、マルタ大包囲戦 (グレート シージ) と呼ばれた。

1571年、オスマン帝国トルコ艦隊は、レパントの海戦でキリスト教諸国の連合艦隊に敗れ、その後、徐々に衰退していった。





マルタ大包囲戦を勝利に導いたのが聖ヨハネ騎士団総長、ジャン・パリゾ・ドゥ・ラ・ヴァレットであった。戦いが終わり荒廃したマルタの再建に取り組んだヴァレットは、イタリア後期ルネッサンス様式を取り入れ、マルタの中心地が理想都市となるよう方格状に道路を整備した。
新しくできた城塞群の町はヴァレットの功績を讃え彼の名前をとり、Valletta ヴァレッタと名付けられた。現在の首都である。

聖ヨハネ (マルタ) 騎士団の国旗は赤地に白の十字架。騎士団総長ヴァレットの紋章はライオンと鷹。
歴代の騎士団長の宮殿に残るヴァレットの肖像画と彼の紋章、並びにマルタ騎士団の国章。




聖ヨハネ (マルタ) 騎士団の現在の本部は、イタリアの首都ローマの一等地、高級ブランド街で有名なコンドッティ通り68番にある。マルタ宮殿と呼ばれるこの建物はイタリア政府から治外法権が認められている。
カソリック影響下にある世界の国々で、聖ヨハネ騎士団は、現在でも医療援助を柱にボランティア活動を続けている。

にほんブログ村 通訳・翻訳ブログ、イタリア語ブログ、マルチリンガルブログ、人気ランキング上位ランクイン、ポチッと応援宜しくね!!

にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
にほんブログ村