シチリア島からシケロイ人がマルタ島に来たあと、紀元前1000年頃に、今度は、地中海で航海と交易で名を馳せていたフェニキア (ポエニ) 人がやってくる。
マルタ島は地中海のほぼ真ん中に位置していたので、交易の中継地として便利なうえ、外海から深く湾入している良港にも恵まれていた。また、海が荒れる冬の間は、船隊の停泊場所や休憩地として利用価値も高かった。


"Malta" マルタという国名はフェニキア語で良港を意味する "Malet" マレトからきている。
3000年も経った現在でも話されているマルタ語の基礎はフェニキア語に起因する。なお、アルファベットの元祖はフェニキア文字 (14字) とされる。

マルタ語は、フェニキア語やアラビア語と同じくセム系の言葉だが、イタリア語やシチリア方言も混じっている。古代ローマ人がマルタを支配するようになりラテン語が公用語になったが、専らそれは支配階級の言葉とされた。
その後、外来の支配者たちも民衆が話すマルタ語を変えるということは無かった。

しかしながら、西暦870年にマルタを征服したアラブ人の支配は220年間続き、この間にマルタの民衆の言葉に北アフリカのアラビア語が入っていった。
もともと、マルタ語はセム系の言葉だったことと、アラブ人が農事改良などに携わることで、地域住民の生活に深く関わり、自然とマルタ語にアラビア語が吸収されていくことになる。

例えば "Marsaxlokk" マルサシュロックという港町の地名は、"Marsa" マルサがフェニキア語の避難港、風よけに適した港という意味から来ている。
また、"Rabat" ラバトや "Mdina" イムディーナといった地名は、アラビア語で人の集まる場所という意味。因みに北アフリカ、モロッコの首都はラバトである。

紀元前218年、フェニキア人の最も有力な植民地だったカルタゴが、地中海の覇権を賭けてローマと戦った第2次ポエニ戦争の時、マルタはローマに占領され、以来マルタはローマ領土となった。

西暦395年、ローマが東西に分裂した時にはマルタは東ローマ (のちのビザンチン) 帝国に編入された。ゲルマン民族大移動の混乱期には、マルタもヴァンダル族に占領されたが、その後すぐにビザンチン帝国に奪回された。ローマ帝国の支配はビザンチン時代を含むと、1088年間に及んだ。





イエスの使徒聖パウロは、西暦59年、エルサレムからカイサリアへ行き、そこから船でシドンへ渡り、クレタ島のカロイ・リメネス (良い港) に到着。その後、シチリア島のシラクーサを目指したが、嵐にあいマルタ島に漂着する。

聖パウロ一行は冬の海が荒れる3カ月の間はマルタ島で過ごした。そして、その間、聖パウロはマルタの彼方此方に出向いて、イエス・キリストの教えを説いた。マルタには聖パウロのために建てられた大聖堂が残る。使徒聖パウロがローマに到着したのは西暦62年の春。

西暦870年、アラブ人がビザンチン帝国の守備隊を撃破してマルタに侵入。農業技術を伝え灌漑設備を整え、マルタの農業生産力を飛躍的に発展させていく。アラブ人は、また、それまで無かった綿や砂糖きび、柑橘類などももたらした。



ノルマン王朝時代、西暦1091年、シチリア島にいたノルマン人たちがマルタを征服し、支配下に置く。
ノルマン人は宗教に寛容だったため、キリスト教徒もイスラム教徒も平和に共存していたが、1234年に一部の住民たちが反乱を起こしたことがきっかけとなり、イスラム教徒はキリスト教に改宗するか、島を出て行くかの選択を迫られ、以来、マルタはキリスト教徒のみの島となった。

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