水木一郎アニキとの思い出

水木一郎アニキとの思い出

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 生アニキとの初めての出会いは昭和49年、別府国際観光会館で行われた仮面ライダーXショーだった。(地元は遅れていてまだV3の放送をやっていたけれど)当時既にアニキのファンだった小学生の僕は是非会いに行かなければと思っていた矢先、幸運にも町内のこども会の父兄が連れて行ってくれた。アニキのミニライブのコーナーがあったのだが、何と当時のアニキはマジンガーzの歌詞を覚えていなかった!二番の「正義の怒りはみんなのために、平和の祈りを」の部分を一番の歌詞とごっちゃにして歌っていた。今では考えられない… ショーの最後のアニキのサインと握手を楽しみにしていたのだが、会場の時間切れという理由で僕が並んでいた後ろの方の列は打ち切られてしまい、直接アニキと会うのは叶わなかった。
 2度目の出会いは平成2年、大分市若草公園で行われた野外ライブだった。七夕祭りの花火大会の日だったが、花火より絶対アニキだよね。住んでいた別府市から大分市へ向かったが、花火大会で道路が渋滞しており、到着が遅れてしまった。既にライブが始まっており、パンフレットも貰えなかった。大失態。しかし後でわかったことだが、遅れたことで幸運もあった。薄暗くなり始めており、ステージではアニキが「もうお配りした歌詞カードも見えづらくなりましたね。これで僕が歌詞を間違えてもわかりませんね」なんてトークをしていた。焦っていた僕は暗くなった客席がよくわからず、ステージ下手側の最前列に人が3~4人いるだけで空いていた地面に座った。熱唱しているアニキの汗が飛び散るのが見えた。アニキが「この曲を作るのに10か月かかりました。僕の子供みたいな曲です」と説明して「なつかしくってヒーロー」を歌った。最後に「ブロロロロー」と叫ぶところを「O~B~S~!」と物凄い声量で叫んだ。それを聞いた隣の人が「おいしすぎる」とつぶやいた。そう、同じ観客だと思っていたその人達は主催者のOBS大分放送のスタッフ達だったのだ。よく一緒に座っていて咎められなかったものだ。遅れてきた僕は一番後ろに座らなければいけなかったのだ。反対隣の本当の客はステージに集中していたし、僕もスタッフの一人だと思ったのかもしれないが、誰にも何にも言われなかったので全く気付かず普通にスタッフのスペースに座っていた(笑)。アニキのステージは本当に素晴らしかった。2時間はゆうに超えていただろうか。それも熱唱また熱唱。本当にこんなライブを無料で観させてもらっていいのだろうかと途中で真面目に思った。遠くから花火の音がパンパン聞こえていたが、そんなもの比較にならないほどの熱量だった。終了後にCDの即売会があり、購買者には握手とサインを差し上げるとのこと。アニキが「売れ残って持って帰るのは嫌だからな」と冗談めかして売り込んでいた(笑)。この機を逃がしてなるものかと当然僕は参加した。選んだCDを受け取って釣銭を財布に入れている途中で突然目の前のアニキが「どうも!」と右手を差し出してきた。慌てた僕は財布をCDの棚に落としてしまい、拾えぬまま握手をしてもらった。緊張で何も言えなかった。サインを書いて貰い、遠い子供の頃に大人の事情で打ち切られたあの日を取り戻せた気がした。結果としてアニキと直接触れ合えたのはこれが最初で最後となった。他の客は三々五々と散って行ったが、僕はそのまま帰る気にはとてもなれず、ステージ裏のオープンスペースで汗を拭きながら水分補給をしているアニキを離れたところから見守っていた。ほどなくアニキが帰る段取りとなり、僕はさっきまで一緒に座っていたスタッフの後ろに並んでアニキを見送った。車に乗り込む際にアニキがチラッと僕の方を見た。アニキはつい先ほど握手した僕を認識していただろうか、それともスタッフの一人だと思っただろうか。今となってはわからない。車を近くに停めていたら、更に追いかけたいほどだった。一番アニキとの思い出深い日だった。
 3度目の出会いは20年後の平成22年、別府城島遊園地のライブだった。家庭を持った僕は家族みんなで、転居した大分市から故郷の別府市へ会いに行くという逆パターンとなった。早くから席を確保して座っていたので、開始前に司会のかぼす氏からインタビューを受けてしまった。「地獄のズバット」の時、「飛鳥!」と掛け声を掛けたら聞こえたらしく、アニキがその後しばらく僕を指差して歌ってくれてびっくり。距離があったし、演奏も流れていたので、まさか聞こえるとは思っていなかった。他に掛け声を掛けた人はいなかったし、ズバットはそもそも大分県では放送されず馴染みがなかった事情もあったかもしれないが。それまでノリノリで掛け声を掛けていたのに、指差されていた間、緊張で子供を抱いたまま固まってしまった。感激が込み上げてきたのはその後からだった。それにしても、さすがアニキ。相変わらず素晴らしいライブだった。アンコールで客席を回ってくれたが、運悪く僕の席の列には来てくれず、握手してもらえなくて残念だった。
 4度目の出会いは平成24年、臼杵市民会館のアニソンBIG3のライブだった。遊園地と違って家族は付き合ってくれなかったので、一人で参戦。8列目と割と良い席を入手できたのだが、ステージに階段が付いておらず、客席に降りてきてくれなくて残念。不完全燃焼だったので出待ちをして車で後を付いて行ってしまった。灯かりがチラチラ見えたので3人ともスマホの確認をしているようだった。名残惜しくて、後ろから追突しようかとの考えも一瞬よぎったが(危)、時間的に大分空港へ向かうはずもなく、このまま福岡へ行くのかもしれないなと思い、自宅近くのICで別れを告げた。
 最後の出会いは令和元年、大分市佐賀関のお祭りのライブだった。直前にアニキのツイッターで「佐賀関に行く」とあり、「佐賀関って大分市の佐賀関?」と慌てて調べると本当だった。地元の祭りで全く宣伝しておらず、アニキの公式サイトにも載っていなかった。当日は夜勤日だったが、交代で夏休みを取る期間だったので急遽休みを貰い、祭りなので家族一同で出かけた。奇しくもこの日も大分市の七夕祭りと重なっていたが、花火よりアニキだよね(笑)。会場準備の時間に乗り込み、真ん中の最前列の場所をシートで確保した。やっぱりほとんど花火大会。残念ながらリハーサルは観られなかったが、地元企業の地元民への感謝祭という趣で客へのサービスが至れり尽くせり。妻は大喜びしていたが、他の住民が参加していいのかなと思ってしまった。アニキが出る以上、決して外せないが。客席の前には柵が設けられていて、ステージには近づけない構造。あわよくば途中でタオルの差し入れをしようと準備していたので残念。時間も30分と短くて物足りず、アニキも「暑いので」と途中で赤いマフラーを外してしまった。あの若草公園から随分年月が経ってしまったんだなと実感。でも、あの声量と歌唱力は相変わらず健在。アニキの歌を聴くと童心に帰れてパワーをもらえる。会場も盛り上がっていた。終わった時はまた会える日が来ると信じていた…
 その後、アニキの喉の調子が悪いと聞いて、初めて(そして最後となった)年賀状を送った。また是非大分に来て欲しいという願いと、「目指せ、トニーベネット!」のメッセージを書いて。しかし、それは叶わぬ願いとなってしまった。昨日、追悼の意味を込めて若草公園ライブの時点の新曲だった「サバンナを越えて」をカラオケボックスで歌った。歌いながら涙が出てきた。これを書いている今も涙が出ているけれど。もうアニキと会えないと思うととても悲しい。アニキはずっと僕のヒーローだった。アニキのことは決して忘れない。本当にありがとう、水木一郎アニキ。もう身体の辛さからは解放されたことでしょう。ゆっくり休んでください。