映画「東京島」の原作といわれる「アナタハンの女王」(1950年)とはどんな事件だったのか(1) | ジャーナリスト 前坂俊之のブログ

映画「東京島」の原作といわれる「アナタハンの女王」(1950年)とはどんな事件だったのか(1)

映画「東京島」の原作という「アナタハンの女王」事件とは・・ <孤島アナタハンに君臨した女王・比嘉和子の悲劇>

比嘉和子(1922~1972)沖縄生まれ。本名富里和子。太平洋戦争中に、サイパン島の北方にあるアナタバン島に32人の男性とともに取り残される6年にわたる島の生活で5度も夫をかえ、合わせて12人が亡くなった。帰国後、「アナタハンの女王蜂」として話題を集め、演劇や映画などで大ヒットしたが、のちに傷害事件の被害者に。数奇な運命に弄ばれた。

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運命の島・アナタハンとは・・

1952、53年(昭和二十七、八)にかけて、”アナタハンの女王〟ブームが全国をかけめぐった。
「久しぶり」という代わりに「アナタハン」という言葉が流行した。焦点の女王蜂・比嘉和子(ひか・かずこ)へはジャーナリズムが殺到した。
 太平洋戦争中の南海の孤島アナタハン島で一人の女性と三十二人の兵隊らが置き去りにされ、飢餓と孤独にさいなまれながら、日本の敗戦を知らず六年間もジャングル生活を続けた。その間、一匹の女王蜂をめぐって壮絶なまでの生と性の闘いがくり広げられ、十二人が殺されたり、死んでいったという謎と猟奇に包まれた事件であった。

戦争と飢餓という極限状況におかれると人間はどこまで非人間的になるか、そんな赤裸々な”実験〟であった。戦争の記憶がまだ生々しい時代だけに、人々に大きなセンセーションを呼んだ。

舞台となったアナタハン島は、サイパン北方一五〇キロに位置する火山島、東西一〇キロ・南北四キロ・周囲わずか三〇キロの小さな島である。島の中央に楕円形の火山があり、平地はほとんどなく、海岸は断崖絶壁、島一面はすさまじい熱帯ジャングルで、元気なものでも一周するのに三日間もかかった。

ここで極限のドラマが進行するが、その主人公・比嘉和子(本名・富里和子)は大正十一年(一九二二)に沖縄の農家に生まれた。父母は幼時に亡くなり、十四歳で大阪岸和田の紡績工場の女工になったが長続きせず、沖縄に舞い戻った。
 昭和十三年(一九三八)二月に、サイパン島に出稼ぎに行っていた兄を頼って同島に渡り、その後、隣島のバカン島の食堂で働いていた。ここでコプラ栽培の南洋興産会社で働いていた比嘉正一(当時二十三歳)と結婚した。夫がアナタバン島の同社常務監督に栄転したため、十八年十月に”運命の島“一緒に渡った。

アナタバン島には同県人で同会社所長の比嘉菊一郎が夫婦で住んでおり、二組の日本人は原住民カナカ族の男女四十五人をコプラ栽培の労働者として使いながら、平和な生活を送っていた。

しかし、昭和十九年になり、日米の激戦地は太平洋の島々に移り、戦雲は急速に近づきつつあった。
心配した正一はバカン島にいる実姉を呼び寄せ、一方、菊一郎の妻と子供たちはサイパン島に疎開するため同年六月十一日に船でアナタバン島を発った。これが夫婦にとって最後の別れになろうとは知る由もなかった。

二日後、同島は初めて米軍のすさまじい空襲を受けた。家や建物はすべて破壊され、残された和子と菊一郎は命からがら、ジャングルへ逃げ込んだ。ちょうど、空襲の時、同島の近くを日本からの食糧補給船団が航行しており、これも米軍機に攻撃されて沈没し、日本兵や船員ら三十一人が海を泳いで同島にたどりついた。もともと、食糧の乏しい同島の人口はこれで何倍にもふくれ上がった。