佐藤卓X中村勇吾『デザインあ』を語る | 福田敏也 オフィシャルブログ PEACE! Powered by Ameba

佐藤卓X中村勇吾『デザインあ』を語る

ユーゴさんにとって映像って何だろう。
会うたびに話をするたびに、それを考えさせられる。
そんな、他人の映像概念なんか気にしてないで、
自分のやるべきことをやりなさい。
そりゃそうなんだけど、僕にはどうにも気になってしかたない。

それほど積極的に映像作家としての仕事を開拓しているわけじゃない。
映像もやってますみたいな自己紹介をしていらっしゃるわけでもない。
逆に、映像とかちょっと苦手でと公言する時もある。
撮影の現場とか、ホント苦手だとおっしゃることもある。
じゃあ、映像が好きじゃないのか。いや違う。
たぶんスゴイ好き。とっても好き。スンーーンゴイ好きなはず。
でも、ポイントは、いわゆる普通の文脈における
映像じゃないってこと。
ユーゴさんが好きなのは。

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昨日、多摩美の情報デザイン科が主催した特別講義があった。
「佐藤卓X中村勇吾『デザインあ』を語る」
佐藤卓さん総合監督、中村勇吾映像ディレクションという
ユニークな座組でスタートしたNHKの子供番組をテーマに
お二人がその裏にある哲学や考え方を語る内容だった。
とても面白かった。
たいそう愉快だった。
いろいろ勉強になった。
多摩美の講師をやっててよかった、って思える瞬間だった。

そこで出ていたキーワードはこんな感じ。
ーーー
デザイン「あ」のディレクション基本方針は以下の2点。
音楽的編集をする:ノンストップでエンドレス、ほぼ無声
微熱進行をめざす:盛り上がらず、盛り下がらず。37.2°ぐらい。

すごい盛り上がりとかつくるものではなく。
YouTube映像のようなテンションのものでもなく。
ずっと音楽聞いてる感じ、BGMとして存在してもいい感じ。
グラフィックデザイン的に言うと、空間にポンと置く感じ。

いいロゴは、そこに何がしかの考え方が内包されている。
いいグラフィックにも、何がしかの考え方が内包されている。
中村勇吾の場合、その何がしかをアルゴリズムがになっている。

なんとなくかっこいい、はありえない。
佐藤雅彦も中村勇吾も構造をつくってから意匠をつくってる。

ーーー

もともとロジカルにお考えになるアートディレクター佐藤卓さんに
歩くアルゴリズム中村勇吾がガッチャンコしているわけだから
そりゃこうしたロジカルな話になるのは
当然と言えば当然か。
アウトプットの形態は違えど
考え方のメソッドがよく似通ったお二人は
いい感じのコラボを展開していらっしゃるよう。

ところで
ユーゴさんは擬音の男である。と思う。
ムニューとかグニョーとかピコピコとか。
何かを解説したり説明したりというときに
擬音が多用される。
お話し全体がグニョとかグインとかな感じになる。
特に、興がのってくるとその傾向は強まる。
でも決してイヤじゃない。
わかりやすくかつシンプルに受け止められる。

そもそもムニューとかグニョーの人なんだ。
最近は、そう思う。
そういう擬音を使うのが好きな人?
いやいや、そういうことではなく、
ユーゴさんの関心領域そのものが
ムニューとかグニョーとかなのだ。
極論すれば
もの作りの目的のコアに
ムニューとかグニョーがある感じ。
ヘタすれば、クリエータ人生そのものの芯がそこにある感じ。

ムニューとかグニョーのクリエーター。
それってどんな人よ。

ーーーー

静止画ーーー映像

僕たちはビジュアルというものに対して
知らないうちに固定概念をもち
その認識に縛られてる。
動かない一枚絵は静止画、
動くものは映像。
その2つをシンプルに分類し
頭の中で整理している。
事実、かつてCM映像に深く関わった自分も
映像と言えば
カメラで撮影して編集室に入ってつなぐもの
という固定概念で映像を捉えていたと思う。

でも、ユーゴさんにとって映像とは、
どうも僕らが思っている範囲のものではないようだ。

静止画ーーー映像ではなく、
静止画と映像のその間に、
静止画ーーーちょっと動く静止画ーーーだいぶ動く静止画ーーーあるルールに基づいて動きつづける静止画ーーーアルゴリズムによって動きつづける静止画ーーー秒あたり30枚の早さで動きが切り取られた静止画(映像)
っていう感じで
「いわゆる映像」の手前に無数のレイヤーがある感じ。
そこに取り組むべきテーマがある感じ。
静止画が2枚重なってパラパラ漫画な動きが生まれた瞬間から
ユーゴさん的映像の世界が始まっている感じ。

ユーゴさんがプロのデザイナーになる前につくった
有名なフラッシュ作品にモナリザをモチーフにした作品がある。
ダビンチのモナリザの顔部分にグリッドが重ねられていて
そのグリッドにふられた番号の数字キーを押すと
その部分の顔パーツがグニューグニューと大きくなる。
長く押せばどんどん大きくなる、
小刻みに押せば小刻みに大きくなる。
数字キーを離せば、元のサイズにもどっていくので。
押したり離したりを繰り返せば
大きくなったり小さくなったりの変化を楽しむことができる。
そのグニューな変化が楽しくて
しばしいろいろキーを押しながら
その動きと音を楽しみたくなる。

それがプログラムに制御されたものであったとしても
これも、ひとつの動画。
いわゆる動画的範疇のものとは違っていても
これも、ひとつの動画。
コマの積み重ねで動きが発生し
その動きによって面白さを与えているということでは
これも、ひとつの動画。
パッケージされた15秒とか60秒とか
そういう形態はとっていないけど、
これもひとつの映像の存在形式。
フラッシュを使ったその作品は
フラッシュの可能性を模索する試作ということ以上に
ユーゴさんにとっては
動くことの面白さ、アニメートすることの面白さ、
静止画に命を与えることの面白さ、
映像の本来的あり方に目を向けることの面白さを
考えることの第一歩だったのかもしれんと
思うわけです。

Wikipediaではアニメーションについて
以下の内容で概念説明されている。
ーーー
アニメーション(英: animation)は、動画(どうが)とも呼ばれ、コマ撮りなどによって、複数の静止画像により動きを作る技術。連続して変化する絵や物により発生する仮現運動を利用した映像手法である。
ーーー

そう。
エジソンの発明によって生まれた1秒あたり24コマで撮影する
映像技術はアニメーションの1表現技術にすぎないわけで
もともとのアニメーションの本義に立ち返って考えれば
動画的あり方の幅は膨大に広い。

Wikipediaのアニメーションの語源についての記述は
ーーー
animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する。
ーーー

なるほど
静止画という時間がフリーズした画像に
新たな命を与えること。
それがアニメーション。

人間は、動いているものに反応する。
そうした生理的特性をもっている。
生まれた時から、そう反応するように
あらかじめプログラムされている。
赤ちゃんだって、目の前を通り過ぎるヒヨコを
本能的に目で追いかけてしまう。
それは、かわいいとか愛しいとか
そうした問題とは別に
そもそも動くものに反応する
本能的特性に由来する。

そしてさらには、
人間はルールをもった動きにひきつけられる。
世界中で開発されてきた「ダンス」も
それが一定のルールのループ構造になっていることが
人間の快感回路を刺激する。
音楽という一定のリズムとメロディの形式が組み合わさって
その快感の増幅が行われるように考えられてる。
ピラゴラスイッチもアルゴリズム体操も
その魅力の根源は同じところにある。

ユーゴさんは、
動画の気持ちよさを
も一度、アニメーションの根源に遡って考えてる。
静止画に命を与えることの
本来的意味にたちかえって考えてる。
フィルムの進化とともに
フィルム的フォーマットを前提に
動画の快感演出を考えてきた流れに対し、
その根源に遡った思索を繰り返してる。
プログラムという最先端の時代的武器をつかって。
プログラムアルゴリズムが生み出す
あたらしいルールの付与を通じて。

エジソンが映画を発明したとき
人々が「動画」というものを初めて目にしたとき、
その感動と驚きは相当なものだったに違いない。
なんじゃこりゃ!の嵐だったに違いない。
ユーゴさんは
そもそもの時代の感動や快感のあり方にたちもどって
時代的なんじゃこりゃ!の実現を模索してる。

そうやって考えると
エコトノハが起動した時の投稿プロセスのビジュアライズ、
モリサワフォントパークの投稿作品のビジュアライズ、
ひとつひとつが
それぞれのコンテンツ体験にとって
重要な意味をもっていたことに改めて気づかされる。
それは、単なる既投稿者の作品紹介ということではなく、
作成プロセスのアニメ化、動画化というポイントに
快感のツボを刺激するキモがあったわけで。
その意味はあまり議論されることがなかったけど、
見るべき重要なポイントは
そのユーゴさん的映像のあり方と考え方、
その快感演出のユニークさにあったとも言える。

デザイン「あ」のディレクション基本方針
音楽的編集:ノンストップでエンドレス、ほぼ無声
微熱進行:盛り上がらず、盛り下がらず。37.2°ぐらい。

NHKのこの仕事を引き受けるにあたり
ユーゴさんのスタンスは引き続き一貫しているのがわかる。
既存の映像文脈で取り組むのではなく
ユーゴさん的テーマの延長線上で
こどもにとってのデザイン教育コンテンツを考えること。
何をやっても中村勇吾。
そのぶれないすごさは、やっぱりすごい。
でもそれは、
その軸に設定されているテーマが
表面的ことではない
根源的、本質的、人間的、生理的、
快感映像の解き明かしだからスゴイんですね。

あ、すんません。
超長文になってる。
っていうか、
なんか中村勇吾評論家みたいになってる。
家電評論家とか流通評論家とか
なんでも評論家ができる時代だから、
中村勇吾評論家という肩書きがあってもいいか。
って、いやいや、それはいかん。
フクダも引き続きクリエイティブの現場にいるわけで
評論する立場ではなく
評論される立場であり続けなければいかん。
うん。

あ、そうそう。
来月にも一度、
多摩美でユーゴさんにお話しいただく場をいただいてる。
毎年1回やってる
グラフィックデザイン科の特別講義。
ことしは、
佐藤卓さんと話してた内容もふまえつつ、
ユーゴさんの仕事のひも解きを
3時間かけてじっくりやる場にしてもいいかもしれない。
ここで書いていることの検証も含め。

ユーゴさん、どうぞよろしくおねがいします。