7世紀に入ると、朝廷の内部では天皇権力を強化して、中央集権的な国家体制をめざす機運が高まっていたが、現実には蘇我氏の勢力に圧倒されていた。しかし、唐から帰国した留学生が先進的国家制度に関する知識などをもたらしたことにも刺激され、皇極4年(645)に中大兄皇子らは蘇我氏を倒し、これに続く一連の政治革命は大化改新と総称されている。(田布施町史より抜粋)



この時代に、ついに中央集権による本格的な統治が始まります。中央では反逆的な地方豪族の討伐から始まり、ここから支配者による管理体制と不労所得の徴収の歴史が始まります。

この大化改新による律令体制により、中央から地方に至るまでは整然と組織され、その中で
大島、熊毛、都濃、佐波、吉敷の5郡で構成される周防国が成立しました。
更に養老5年(721)に玖珂郡が熊毛郡から独立し6郡となり、その後は変化なくこの区分が成立しました。



この時代には、律令土地制度によって全ての田地が公地とされ、6年ごとに口分田として農民に班給する形が取られました。
この時代の税にあたる稲穀の徴収は、3%程度と軽微なように思われますが、都まで運ぶのは納税者の負担とされ、その労務や移動中の食料など、農民にとっては大きな負担であったと推察されます。


中央の支配者のみが生活するための資源でいいので、徴収量は軽微といえますが、その運搬をそれぞれに任せるなど、制度の不備が分かります。
こうした事からこの先、どんどんと"管理"のための労働(?)が大量に必要となり、本質的な生産力が奪われていくのであろう未来が手に取るように分かるような気がします。

現代においてもはっきりと露見してきたこの非生産者の仕組みは、しっかり紐解いて制度のしがらみを無くしていかないと、特にこの先の地方自治には未来がないように思いますので、しっかり考察していきたいと思います。