縄文時代に入ると、田布施近郊でも主だった遺跡の跡が見られます。



【山口県の縄文遺跡】
①熊毛半島沿岸部 (平生町岩田遺跡等)
②小郡湾岸    (宇部市月崎遺跡等)
③下関響灘沿岸部 (下関市潮待・神田遺跡)

①の熊毛半島沿岸部の遺跡については、
柳井市:黒島浜遺跡、宮田遺跡、与浦遺跡
平生町:岩田遺跡、尾国遺跡、浜崎遺跡
田布施町:八海、神過原遺跡
その他、大島郡の海浜諸遺跡
を一括りとして定義するようですね。





※平生町岩田遺跡(平生町ホームページより拝借)



当時の人口はそこまで多くない中、このように地域ごとに点在して住んだ理由として、以下のように記述がありました。

「自然物採集経済を基本生業とする縄文人たちが大勢で一か所に居住すれば、たちまち付近の資源を掘り尽くし、枯渇の中で多くの人が飢えなければならないであろうから、経験的知識によって、自然の再生産が可能な範囲の小集団に分散して生活していたのである。
これらの諸小集団にはそれぞれの縄張りがあり、原則としてその範囲内で漁業・採集が行われていた。
湾内や近海に回遊魚の大群が押し寄せた時など、これらの小集団はそれぞれの縄張り、海域に丸田舟を漕ぎ出し、網を張って互いに漁獲を競ったに違いない。漁網の錘(おもり)となる礫石錘が大量に出土するので明らかなことである。
時には獲物を巡って争いも起きたであろう。しかし彼らはお互いが同宗同族であるという意識が強く、部族内外の紛争を解決するにあたっては、部族の長が中心集落(例えば岩田遺跡)に寄り合い、全員の合議によって処理されたであろう。」


近年、縄文時代の人々は実はかなり高度な文明を形成していたのではないかという説がありますが、平成2年にまとめられたこの史書においてもその片鱗が感じられるように思います。

自分たちで自制し、お互いを尊重し合いながら1万年も続いた文明のあり方については、これから研究が進むと我々よりも高度な文明だった…というような事もあり得るかもしれませんねおねがいキラキラキラキラ


様々な法律やルールばかりが増えて、端々に「…その限りではない。」と書いてある現行制度よりは絶対いい気がしますウインクキラキラキラキラ笑笑




山口県の縄文遺跡には、
貝塚がない
石鍬とみられる打製石斧が大量に出土しているという特徴がみられるようです。



これらの条件から、山口県域では原始的な農耕の存在が予測されるそうですよ!!びっくりキラキラキラキラ





また、大きな遺跡は全て海浜エリアにある反面、晩期は河川流域に小遺跡として点在する様子からも、
弥生時代に移りゆくにつれ、狩猟→農耕など、人々の生活様式が移り変わっていった事がわかるようですねニコニコキラキラキラキラ



学生時代は歴史の勉強というと実感が湧かなくて退屈でしたが、このように地元の歴史を学ぶことで、親近感やイメージが湧きやすいというメリットがあるようにも感じましたウインクキラキラキラキラ


ご興味がある方はぜひ読んでお子さまに教えてあげてくださいませおねがいキラキラキラキラ