自分自身への扉 どこまでその意識を豊かに使えるかです | 自分自身への扉

自分自身への扉

答えは自分が知っている

みなさん、こんにちは。


12月、今年も残すところあと僅かになりましたね(^^)


この一年、大きな出来事がいろいろと起こった年でした。


私の中で印象に残った出来事は、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元首相銃撃、エリザベス女王死去、あと子供の頃に熱中したプロレスのアントニオ猪木さん、そしてワクワクして読ませて頂いた漫画家の藤子不二雄Aさんがお亡くなりになられたことなどです。


私自身もいろいろと変化のあった年になりましたが、生きるというのは経験なんだなぁってつくづく思います。


経験するためにこの世界にいる、当たり前と言えば当たり前のことですが、人それぞれ人生があり、経験することが違います。


この世界はよく幻想と言われたり仮想現実と例えられたりしますが、仮にそうだとしても、仮想現実の中にいる私たちにとっては現実そのものです。


幻想、仮想現実と言う例えは単なる比喩でしょうか。私はリアルにそのような世界かも知れないと思っています。


さて仮想現実と言う話は一旦脇に置き、どのような世界にも仕組みやルールと言うものがあります。


宇宙にもあるだろうし、この地球だけのルールもあるでしょう。


そしてそこに生きる人たちの集合意識がそのルールを作り出すこともあれば、自分自身で作り出しているものもあるかと思います。


例えば、こうでなければならない、私とはこういうものだ、といった思い込みのようなもの、つまり観念と呼ばれるものです。


集合意識で作られたルール、それを地球のルールと言ってもいいかも知れませが、それはなかなか個人のレベルで変えることはできません。例えば100年もしないうちに身体が衰え寿命がくるなど。


ですが個人レベルの問題であればどうでしょうか。


人はさまざまな決めつけをし、自分自身をその観念で縛っています。


それはこの人生で作られたものや、あるいは別の人生(過去世など)から持ち越しているものもあるかも知れません。


ですがそれらの観念は、今の自分の意識で変えることは可能ですよね。


人は生死を繰り返し、幾度となくさまざまな人生を経験してきた存在です。


その中で数々の経験から得たものを魂に刻み、そして現世での環境の中で自分というアイデンティティを確立していきます。


そして私たちはさまざまな経験をしていきますが、経験にはポジティブなものもあればネガティブなものもあります。そのどれもが地球における魂の経験には欠かせないものです。


ですがあまりにもそのネガティブな観念が強すぎて、自身の可能性を閉じ込めてしまい、人生をとても限定的な経験にしてしまう場合があります。


そのような観念を外し、もともと持っている自分自身の力を良い方向に発揮できる人生にしていくことが、一人一人の魂レベルで求められていることだと思われます。


生きる目的、それは自らの可能性を創造することでです。なぜなら人生とは自らの意識を反映させ創り上げる世界だからです。


自分の意識が反映されると言うことは、人生とは自分自身の内面を現したものであり、それを外側に映し出しながら、生き方を通して完成させていく自分自身の言わば作品だと言えます。


そして、どのような人生を生きるか、そこには観念が大きく関わってくると思います。


自分とはこう言うもの、人生とはこう言うものと言う自分が信じている観念を世界に映し出すからです。


目の前にあるもの、取り巻く環境がどのようなものであれ、意識は自由です。好きなように自分自身が使うことができます。


そしてその意識が、自分の現実という目に見える世界に影響を与えていきます。


「観念」とはその自分の意識が強く信じていることですが、どのようにその観念が作られるかと言えば、やはり育ってきた環境や、経験から来るところが大きいと思います。


ですが、そこにはその人の持つ性格も影響しています。似たような環境で育っても、感じ方、捉え方は一人一人違うので、同じ出来事が起こっても反応の仕方は違うかも知れません。


大抵の場合は、自分の観念に照らし合わせて、その枠から出る考えを非現実的(自分には出来ないこと、それは間違っている)だと捉え、それは有り得ないと否定してしまいます。


ですが、意識はもっと自由であり、可能性に満ち溢れたものです。


限定し決めつけてしまうのではなく、もっと自由に思い描き、その可能性の扉を開く道具として意識を活用することができるのです。


意識はエネルギーであり波動です。


それが私たちの周りに反映(引き寄せられる)として姿を現すようにこの世界はできています。






私たちは、誰もが自由に考える意識を持っています。


意識は創造の源です。それが創造の力であり、現実を創り上げていくエネルギーです。


意識が変われば現実が変わります。あるいは同じ現実でも意識が変われば捉え方が変わります。


例えば問題に思ってたことが捉え方が変わることで問題とは感じなくなったとすれば、それも変化したことと同じです。


物事と言うのは、どう感じるか、それによって世界は変わるからです。


ホラー映画を観に行ったとしましょう。一人は怖くて目も開けていられず、こんなところから早く出たいと思って映画を観ています。もう一人は、ここからどんな展開になって行くのかとワクワクしながら映画を観ています。同じ場所にいて、同じものを目にしていても、一方は楽しく一方は居心地の悪さを感じています。そのようにまったく違った世界を体験しているのは、感じかた、の違いです。


つまり、心の状態が、今この瞬間をどんな場所にするかを決めます。


現実を変えることばかりに意識が(外側に)いって、どのように感じるかと言う心の在り方の方を軽視しがちになってしまいますが、現実を変える、現実に影響を与えるのは、心の在り方、意識の方です。


外側にどうしても意識を向けがちになりますが、意識を変える方が先であるということを、再認識しておく必要があります。


好ましい現実に変化することを望みますが、変わっても変わらなくても、心が穏やかで楽しければ何も問題はありません。


外側の出来事で右往左往するより、何が起こっても、心に平穏が保たれる状態の方がいいのではないでしょうか。


そして心の状態がそのように変わったとすれば、当然、出来事である外の世界も変化していきます。心の状態(波動)が、外側に映し出されるのですから。


さて、意識(波動)によって現実が変わると言うのは、この3次元世界のことだけではなく宇宙全般においてのルールのようです。


そこである疑問が浮かびます。これはよく思うことなのですが、この世界が仮想現実(幻想)であるなら、それはどこまでの範囲なのか?と言うことです。


この3次元世界のことだけを指すのか、あるいは5次元、6次元などもそうなのか、私たちが死ぬと行く世界はどうなのか…それぞれ世界のフィールドは異なると思いますが、どこまでいっても仮想現実の可能性だってあり得るわけです。


子供の頃にインベーダーゲームに熱中していた時と比べれば、ゲームも比べられないほど進化してきています。今はまるでそこにいるかのようなバーチャルリアリティを体験できるゲームの開発が進められて来ていますし、それはどんどん性能が上がり、今後ますます臨場感のあるリアリティの追求がなされて行くことでしょう。


そのような作られたバーチャルの世界であれば、いくらでも異なる世界を作り出してさまざまな冒険ができるようにプログラムは可能です。


まったく違う世界観の世界を創造力の可能な限り作り出してプログラミングすればいいのです。


今でさえそのようなバーチャルな技術が出来てきているのですから、50年、100年と経っていけば…そう、この先の未来には仮想現実と言うことを忘れて、現実として体験できるものを作り出せる可能性は十分に考えられます。


そして、今その作り出された仮想現実の中で、私たちはプレイしている、そう考えることさえできます。


よく映画「マトリックス」がこの世界の真実を現しているとして取り沙汰されますが、もし、世界を支配している存在がネガティブな意識の持ち主であるなら、それらのシステムをうまく使い、仮想現実の世界で私たちを彼らの都合の良いように管理するかも知れません。さて、この世界はどうでしょう…。


仮想現実という話は、また一旦忘れることにしましょう。


自分自身の現実は、自らの意識の波動がその反映となり、そこに映し出されます。


ですから、自分自身の環境に現れる世界は自らの内面の世界です。


内なるエネルギーが形を伴い外側に創り出されるのです。


私たちは私たち自身を世界に映しながら、自らの内なる世界の可能性に挑戦していると言えます。


では、この世界が波動で成り立つ世界であり、自らの意識が創り出しているのだとすれば、現実を変えるエネルギーとはどこにあるのでしょう。


それは、自らの意識です。


この世界というのは、私たちの内側(意識)にあるものが、目の前にあるスクリーンに映し出された世界だとよく例えられます。


そもそも私たち人間は、どのようにして目の前にあるものを認識しているのでしょう。


私たちにはものを見る目というものがあります。そして目から入った情報を脳に伝えます。そこで初めて物理的な形を把握します。


では目に入る情報とはなんでしょうか?


いったい目は何を捉えているのでしょう。


目はオートフォーカス機能(ピントを合わせたり露出を変えたり)を携えた光を通す器官です。つまりカメラのレンズのようなものです。


光を捉えた目は、その情報を電気信号で脳に伝えます。


脳はその送られてきた情報を解析し、そこで物理的な形を把握します。つまり脳は情報処理回路のようなものです。


ですが、目は実際、何を見ているのでしょう。


例えば本当に目の前に物質的な机があって、それをその通り脳に送っているのでしょうか?


もしかすると目の前には何もなく、ただ周波数を見ている可能性もあります。


つまり、テレビの電波をキャッチして映像として映すのと同じです。


電波は飛び交っていますが、私たちには何も見えません。ですが電波を受信する装置があり、その電波を受け取りテレビは映像に変換しています。


つまり、人間(脳)がテレビのような受信機とも考えられます。


なぜ目に見えない電波がテレビには映像として映し出されるのか、科学に疎い私にはなかなか理解できません。


説明されても、だからなんでそれで映像が映るの?と思ってしまいます。まるで魔法です。それを科学的に可能にしてしまう人間?はやはりすごいとしかいいようがありません。


この現実も、それと同じようにすべて周波数が作り出している世界だといわれています。


じゃあ我々が見ている、そして感じている現実と呼ばれるこの世界は本当は何なのでしょう。


物質化された世界が幻想なら、本当の世界はどんな世界なのでしょうか。


科学の世界は、量子力学など、私たちの肉眼では捉えられないミクロな世界の研究に挑んでいます。形あるものすべては陽子や電子のような小さな小さなものに行き着きます。


そしてその物質の最小単位のものを素粒子といいます。その素粒子を人が観測している状態と観測をしていない状態では素粒子の動きが異なるという実験は有名ですが、それが本当なら私たちの意識がそのような素粒子に影響を与えているということに大きな意味があるように思います。


よく研究などで同じような実験をしても、人よって結果が変わると言ったことも聞いたことがありますが、それはすなわち、その人の意識が結果に反映されるということです。


そのように意識というのはすべてのものに影響を与えているとすれば…私たちの肉体を作り出している数多くの細胞の中にも素粒子があります。私たちの意識によって反応を変えるような性質を持っているなら、当然、自らの細胞をも変化させることができると言えます。つまり病気を作り出したり治したりするのも、意識が関係していると言えるのではないでしょうか。


そして、にわかに信じられないことですが、私たちが意識を向けた方向にだけ世界が広がり、見ていない方向には何も存在しないという話もあります。


二十数年前、職場で学生のアルバイトをしていた子が、「今こうやって見ている世界は、本当の世界でしょうか? 目が認識できる範囲しかものを捉えることができないですが、実は見てないところは何も存在していない、そんな気がするんです」


そのようなことを神妙な顔つきで言っていたのを思い出します。


その時は、仕事中でもあったので、面白いことを考えているなぁ、と思ったぐらいで終わったのですが、その時、もっと彼とそのような話をしておけば良かったなと思います。


さて、最近のスピリチュアルの話題で良く聞くワードが統合です。


この自分と高次の自分であるハイヤーセルフとの一体化、物理次元と非物理次元の統合です。


また、アセンション、次元上昇などと呼ばれています。


あなたとわたしの垣根を越えて意識を共有する、つまりテレパシーで繋がる、といったような世界観も含まれてきます。


すべて繋がっている、それは高次の感覚であり、その世界とはまさに高次元、つまり、それが可能になると言うことは、私たちの次元が上がる、と言うことです。


ですがすべて波動、周波数で物事は作られているので、周波数が違えば、交わることがなくなります。


次元が上がると言うことは、その次元の周波数に合わないとそこには行けないと言うことです。


現時点でも私たちは、自らの波動と引き合う世界の中で生きています。


次元上昇と言っても、それは周波数の違いであり、その世界に行きたければ、自分の意識をその世界に合わす必要があります。


引き寄せの法則などで言われる、豊かになりたければ、豊かさを感じなさい、イメージしなさい、と言うことと同じで、


簡単に言えば、自分の行きたい世界がどんなところか、それがわかれば、その周波数に自分自身を合わせればいいというわけです。


アセンションについても各々捉え方があると思いますが、この世界(仮想現実)に組み込まれたイベントの一つだとすれば、そのゲームに乗っかってそれを楽しむと言うのも一つの手です。


この世界が仮想現実であるなら、そもそもすべてはゲームであり、幻想です。このような話に興味が湧くなら、そのようなイベントに参加して楽しむつもりで取り組んでみるのも面白いのではないでしょうか。


ただ一つ言えるのは、このような話を知らなくとも大丈夫だということです。


興味の問題ですよね。サッカーが好き、音楽が好きと言うように人にはそれぞれ好みがあります。


音楽が好きなら、いつどこどこでコンサートがあるという情報を得て、そのためにチケットを取ったり、行く準備をしたり、そのようなイベントを楽しむという選択ができると言うことです。


そんなことに興味がない人には、あまり関係ないことで、生きて行く上で何も問題ないのと同じです。


自分にって必要のない情報は入ってきませんし、入ってきても興味は抱かないでしょう。


そのように一人一人の世界があります。


そして一人一人の意識が自分の人生を創り出しています。


皆、紙とペンを渡され、好きなように描きなさい、と言われているのと同じです。


ペンは意識で紙はこの3次元世界です。


その描かれた絵が自分の人生です。


一人一人環境は違います。その環境の中で私と言う意識は何を描くことが出来るでしょうか。


病気で苦しんでいる人もいれば、仕事がなくどのように生活していけばいいのか悩んでいる人もいるでしょう。


ですが、その中で何を思い描けるか、どのような意識でいられるか、それがとても重要なことだと思います。


もちろん、今とても苦しんでいる人にとっては、苦しいというその現状が、意識を変えるだけ、ということで片付けられない精神状態であることはわかります。


ですが、今自分で変えられるのは、意識、であり、意識を変えないと行動も変わりません。まず全てはそこから始まります。


この世界をどのように捉えるか、これはとても大きいと思います。


私たちは意識です。


そして、この世界は意識で作られています。


現状がどうであれ、今の意識が世界を創り出していきます。


どこまでその意識を豊かに使えるかです。


意識は自由です。どのようなことも思い描けるし、どのような物事にも焦点を合わせられます。


意識は宇宙そのものであり、そしてそれが私たちの本質だということです。



本当に人により感性も違い、それぞれ伝えたい部分も違います。今の時代と言うのは情報の時代だとも言われます。まさに氾濫しています。


私は私の惹かれるもの、私の好む方向から話しをしていますが、心が軽くなる考え方はとても大切だと感じています。


この世界を見渡せば問題の山積みです。これからさまざまなことが噴出し、さらに世界を揺るがすような出来事が起こってくるだろうというのは誰でも想像できることです。


ですが、そのようなことに振り回されてネガティブな意識で生きてしまっては、思考によるネガティブなループから抜け出すことができません。


反応のしかたと言うのはとても大切で、先ほど話した映画の例えのように、同じものを観ても、それをどのような視点で捉えるかによって、感じ方がまったく変わってしまうのです。


感じ方と言うのも波動です。波動が世界を創るのであれば、それがどれだけ大切なことか…意識次第で経験の仕方が変わってしまうのですから。


物事を軽視しろと言っているわけではありません。


自分自身と向き合うことは大切であり、そこから何を学び気づきを得るか、それにより人は行動を変えて行けます。


ですが、周りの出来事に振り回され、やみくもに不安や恐れに支配されてしまうことは、人生を楽しく豊かに生きたいと思っている気持ちとは真逆の方向だということです。


集合意識によって地球上で起きる全体的な出来事が左右されてきます。


その集合意識は私たち一人一人の意識が作り出しています。


どのような視点で物事を見て、どのような行動をとっていくのか、不安や恐れに根差した行動か、調和や愛に根差した行動か、それによって、自分の人生も、この世界の状況も大きく変化していくわけです。


さまざまな考えがありますが、自身の考えや感じ方も大切にする必要があります。


宇宙にはいい悪いと言う判断はなく、何を経験したいかがあるだけだと言われます。


正義も悪もなく、すべては、ただ経験そのものがあるだけ…


私たちの価値観、感覚ではなかなか理解できないこともありますが、さまざまな出来事、さまざまな経験を魂はしたいようです。


パラレルワールドと言う概念も、現実的な感覚から見ると、かなりぶっ飛んだ概念です。ですが、自分の感性から捉えると、それを否定するような気持ちはわきません。


そのパラレルワールドについて少し触れます。


意識したことが、パラレルワールドを創り出すと言われています。


人はさまざまなことを考え意識します。一人一人がそうなのですから、宇宙には数えきれないパラレルワールドが絶えず出来上がっているといえます。


私たちは物質的に物事を捉えますが、パラレルワールドと言うのは物質的に存在しているわけではないので場所や空間が必要なわけではなく、いくらでも無限に別世界が作れるようです。


それで自分が創り出したどのパラレルワールドに行くかは、どれだけその世界と波長を合わせられるかということです。


例えば、ベンツの新車が欲しいと思い浮かべて、それを乗り回す想像をしたとします。するとその世界のパラレルワールドが出来上がります。そして、でもやはりこっちだろうなと、中古の軽自動車を手に入れる想像をします。


創造した世界は2通りあり、その2通りの世界がパラレルワールドとして存在することになるのです。


そしてそのどっちの世界に行くのかは、どちらの世界に自分の波動が共鳴するかによると言うわけです。


そのように思ったことがパラレルワールドとして創られるのであれば、人生は決まっていないことになりませんか?


つまり人生は自分で創り出すものということです。


人生には青写真があるのではないか、すでに決まっているのではないか、という話しですが、もちろんそれはあるだろうと思います。


ですが旅行に行くプランを立て、計画を練り、この通りにいくぞと思っていざ行ってみると、大きなアウトライン(ハワイに行く、5泊6日など)は変わらなくとも、計画には入れていなかったことが起こったりしますね。例えば豪雨に襲われ予定を変更したり、こっちか楽しそうだからこっちに行ってみようと言った具合に、行った先々で意識や行動に変化が起こるかも知れません。


この人生も同じで、その時々の意識の変化で、選択や行動も変わってきます。


ただこの世界に来る目的に沿って、自分が体験したいこと、その経験をするための環境などが舞台のセットとして配置はされていると思います。


その中で自分はどのように捉え、どのように考えるかで、違うパラレルを創り出して行くという訳です。


そう考えれば人生は決まっているようで決まっていないと言えますね。自由意志の範囲はけっこう広くとられていると言う印象を受けます。


パラレルワールドが自分の意識でいくらでも創り出されると言う時点で、この世界は選択可能な世界であることがわかります。


そして、よく言われる、生まれ変わり、カルマという話にも触れておきます。


私たちは、この人生だけを経験しているわけでなく、何度も生まれ変わり、たくさんの経験をしてきました。


そのたくさんの人生の中で犯した罪をどこかの人生で償う(解消)しなければならない、という考えがカルマです。


確かに自分の蒔いた種は刈り取らなければならない、というのはわかります。


ですが、過去世の行いなど覚えていないのに、それを償うためにこの人生で苦しまなくてはならないというのが、今一つピンとこないのです。


ネガティブな意識がネガティブな現実を創造している、というのは、体感としても理解できます。


ネガティブなことを意識すれば、ネガティブな出来事を引き寄せる。ポジティブなことを意識すればポジティブな出来事を引き寄せる。単純に創造するエネルギーの方向性の話しです。


ただしそれはこの人生での創造であり、今この人生でこのような出来事を創り出したのは、これまでの自分の意識によるものだ、じゃあ意識を切り替えようと、自分のこれまでの意識や行動の反省もできるし、納得もできます。


ですが、過去世の行いが…となると、自分の意識の範疇を超えてしまいます。これは今の自分が創り出したものではなく、過去世の自分が創り出したものが影響している、となると、もう自分という感覚では捉えきれません。なぜなら自分がしたことを覚えていないのですから反省も何も出来ないからです。過去世で創り出したならその過去世の人生で解消してくれ!ってなりますよね。ちょっとルールがおかしいんじゃないか、とさえ思います。


それに過去世を見なければわからない、となると、一般的に考えてみても、そんな能力を手にするにはかなりのハードルがあります。


しかし蒔いた種は刈り取る、と言われるように、魂は永遠であり、何度も生まれ変わるということを受け入れれば、確かにそれも自分だから、過去世の自分が創り出したエネルギーは今の自分が刈り取る必要はあるな、とも思ったりしますが、


悪い行いをした、それは罰として自分に返ってくる…それは宗教的概念です。ですが、傷つけたあなたも、傷つけられた相手も、実はあなた自身であるとすればどうでしょう。


今から始めますか…? すでにけっこう長くなっていますが…。


次回にしてもかまいませんが、このエネルギーの状態を維持して進めた方が、流れに乗れる、と思いませんか?


では対話はこのまま続けてみますが、今回の記事は一旦ここで区切りをつけておきます。


この続きは、また次回の記事ということで。