まずはじめに、申し訳ないが、「太陽とボレロ」の鑑賞記ではないことをお断りしておきます。m(__)mそれから津波・水害が無理な人も読まないでください。

 

ラヴェルの「ボレロ」といえば皆さんご存じの通り、小太鼓の叩きだす同じリズムの延々と続く中、別々の楽器がソロで次々に同じ旋律をそれぞれの持ち味で奏で、(ほかの楽器は合いの手のように唱和し)、それらが徐々に盛り上がりを見せてゆき、最後にはすべての楽器が圧倒的な熱量と音量でもって歌って大団円を迎えると言う、まさに古典ではなく革新的なクラシックの曲である。一度聴いたら耳に染みついて忘れられない。

 

水谷豊監督「太陽とボレロ」でもそれが演奏されるはずだし(←まだ見てない)、2週にまたがる放送で★、4日土曜日に見た「名前のない音楽会」でも、監督は太陽とつけたのは、この曲に太陽の光をイメージしたからというようなことを言われていたような。(←怪しい記憶力)確か水谷監督がはじめてホールでのクラシック演奏会で聞いた曲がボレロで、本当に感動したという話は間違えていないと思う。

そしてこの番組で東フィルを小林研一郎さんが指揮して演奏されたボレロ。無茶苦茶素晴らしかった。檀れいさんはぽろぽろと涙を流しながら感想を述べられていた。(これがリビングの25型テレビの音じゃなかったらもっとよかったのだが(-_-;))

 

小林さんの解釈では、ボレロでソロを奏でるそれぞれの楽器は各自の人生を語っており、最後の盛り上がりは輪廻転生を表しているのだとのこと。ラヴェルがそのように考えたかどうかは信仰の違いからわからないが、私などはそういわれたらそうかも、と思う。輪廻転生はあると思っているし。東フィルのとても実直そうなコンマス(第一ヴァイオリン)は素晴らしい方だと思うが、私はもう辞められた大谷康子さんが好きなので、大谷さんのヴァイオリンでも聞いてみたかったけど、ボレロは様々な楽器、とりわけ管楽器の見せ場じゃなくて聴かせどころがある楽曲だ。それにしてもボレロでは、小太鼓の人が大変だ。今回は女性奏者だったが、初めから延々と同じフレーズ(ていうのかな?)のリズムを刻み続けるので、途中で私ならぼーっとして打ち間違えそうだ。(-_-;)昔、ぶっちゃけで、「間違えたことありませんか?」と(確か同番組で?)数人の打楽器担当者に尋ねていたことがあったが、「あります」と正直に答えたかたが多かった気がする。(←記憶力が怪しいけど、たしか)。

MCの石丸さんが水谷監督に、どんな基準で各楽器に担当するキャストを選んだのですかと尋ねたら、トランペットには立ち姿に色気がある人が望ましいと言っていた。はい、町田君は立っても座っても演奏しても素敵です。(o^―^o)

 

そして私が、初めて聞いたのではないにしろ、強烈にボレロという曲を印象付けられたのは、「夜叉ヶ池」という映画によってである。これは大学生の時だったか。今みたいにしょっちゅう映画を見に行っていたわけではないのに、一人で出かけて見た。

原作は泉鏡花。監督は篠田正浩。主演は坂東玉三郎で、相手役が加藤剛だった。もちろん女形の第一人者であるお玉様の演じたのは女性である。多分私は玉様の演技が見たくていったのだろう。

 

 


ストーリーは、こうだ。福井あたりの山中の村に、民話や伝承を採集している男(加藤剛)がやってきた。時代は柳田邦夫の遠野物語のころだろうか。明治の終わりから大正にかけてのころだったろうか。鬼滅の刃もたしか大正のころだから、当時の日本では魑魅魍魎は今と違って身近なところにいたのだろう。その村には、近くに夜叉ケ池という大池があって、大昔からのいいつたえで、日に3度鐘をつくと、約束によって夜叉ケ池の主は氾濫を起こさないのだそうだ。しかしそれを怠ると、氾濫が起こって村は洪水に見舞われるという。そう語った翁は自らが鐘撞きを長年続けてきたのだが、男の前で急に具合が悪くなり、後事を託して急死する。翁以外の村人は、長年洪水などおきなかったので、その約束を信用していないのだったが、約束した手前彼は村にとどまり、毎日鐘撞を続けた。

彼は村一番の美女百合(玉三郎)と所帯を持つ。(彼女は翁の娘だったような気がするが・・・)いっぽう、夜叉が池の主は美しい竜神の姫(玉三郎の二役)で、もう少し山の上のほうにある湖の主に恋焦がれているが、そこへ行きたくても大昔の人間との約束があるから、日に3度鐘の音が聞こえるうちは出ていかれないのだ。彼女が動くと氾濫がおき、その水の中を彼女は恋しい男神のもとへと旅して行けるのであるが、彼女の周囲の乳母や家来のような者たちに諫められ我慢している。余談であるが、昔の人は、雨は竜神が降らせると考えており、その住処は湖などとされていた。八郎潟とか琵琶湖とか。

 

 

下の写真は玉様と加藤剛。玉様は実は結構背が高いのだが、女性らしくて美しく色っぽい。ただお姫様を演じるときよりもやっぱり地味だ。玉様にはお姫様や大店の娘役のほうが相応しいように感じる。二枚目の写真は、夫の留守中、寂しくてお人形を抱いた玉様。お人形は子供の表現ではなくて、まだ子供はいない設定だったと思う。この二人の無茶苦茶控えめなラブシーンも素敵だった。チェリまほ級の。(^^;)

 

 

学者で僧籍のある友人(山崎努)が加藤剛を訪ねてくる。民話伝承を探しにいったきり帰ってこない友を心配して探しに来たのだ。加藤は、いきさつを説明し、興味を持った学者を案内してちょっと近くに出掛けることになった。その留守の間には百合が鐘をつく。村では美しい百合を狙う男どもがいた。加藤(役名はアキラだったか)が留守のときを狙って夜這いにくるが、百合にはねつけられた。(←そうだと思ったが、違った?(^^;))それで腹いせに、そのころ日照りが続いていたので、美女をいけにえにして雨ごいをするという習わしのもとに、アキラがいないうちに百合をいけにえにしようとした。(もう、卑劣!こういう男大嫌い。でも、いそうだわ。今でもそうだけど特に当時は人権という概念がなかっただろうから)

原作では、どうも百合は胸を突いて自殺し、急ぎ戻ってきたアキラも百合を助けられずに自殺するらしい。しかし、私の記憶では、牛?の背に括りつけられた百合が引っ張っていかれる映像は見た気がするが、自殺ではなかったような・・・・。結局、日に3度の鐘は誰も撞かなかったので、夜叉ケ池は氾濫を起こして、洪水が村を襲い、すべての村人が死に絶えた。ただ山崎努だけが小高いところからその様子を目撃し、事実を伝えることができたのだった。

 

その洪水シーンのときに、画面がスローモーションのようになって、水が天高く盛り上がったのが向こうからこちらにむかって襲ってくるのであるが、その時に流れる曲がボレロだったのだ。ジョン・ウィリアムズの作曲した映画音楽のような盛り上げ方ではないが、圧倒的な水の量と迫力と、それに翻弄され破壊される自然や村の建物や人たち。善人にしろそうでないにしろ、まぬかれることはできない力だった。このときの画像にはイグアスの滝(生きている間に一度現地で見てみたい)に取材して撮ったものも使ったらしい。戦争物のような恐怖とは違う、畏怖とでも言うべき、天罰とでも言うべきそれは荘厳な恐怖だった。そして、かの竜神のお姫様は、喜んで(でも確か同じように恋する女性として百合の事も気に掛けながら)愛する男神のもとへと出かけていくのだった。

つまり、ボレロには、何か大きないかんともしがたい力のようなものと、人の命の営みの尊さのようなものを感じることがあるのである。・・・ん?それって、マエストロ小林と同じなのだろうか?(;'∀')(^^;)(;^ω^)

 

夜叉ヶ池は一回だけ地上波で放送したらしいが、なにか権利のことでもめて、円盤も出ず、ずっと幻の作品となっていた。しかし昨年リマスター版が再上映され円盤が出たらしい。

 

 

作品として素晴らしいので、もう一度見てみたい。あのボレロのシーンも。

 

(★ひとつ前のブログの「太陽とボレロ」の項をご参照ください。)

いつものように変更したところは青字です。