ブラジル訪問記 | 田母神俊雄オフィシャルブログ「志は高く、熱く燃える」Powered by Ameba

ブラジル訪問記

5月23日(金)~28日(水)までブラジル国サンパウロ市を訪問し、日本会議ブラジル支部の計画する田母神俊雄講演会に参加することになった。


5月23日(金)
成田空港15時発のデルタ航空DL172便で日本を出発した。12時間と少しかかって、ニューヨーク時間の23日(金)午後3時過ぎにジョン・F・ケネディ空港に着いた。ビジネスクラスだったので座席は完全水平のベッドになり、睡眠も十分とることができた。172便の客室乗務員のチーフは年配の日本人女性であった。彼女は田母神のファンだということでツーショットをお願いされ着陸前に機内で写真を取った。デルタ航空ラウンジで乗り換えのため6時間ほど休憩。ラウンジにはシャワールームもある。ラウンジ内は東京の羽田や成田と違って少し賑やかである。携帯電話もラウンジ内でごく普通に使っている。日本では携帯電話を使おうものなら、小声で話してもすぐに注意されるが、周囲に迷惑になるほどの大声でない限りあまりうるさく言わない方がいいと思う。夜の9時26分のDL471便でサンパウロに向かう。日本にいるとニューヨークとサンパウロは近いような気がしているが、飛行時間は9時間20分もかかる。東京~ロサンゼルスなどより遠いことを認識した。


5月24日(土)
飛行機は少し遅れてサンパウロ時間の24日(土)朝9時頃にサンパウロ国際空港に到着した。ブラジル日本会議理事長の徳力啓三氏ら十数人が、「歓迎!田母神俊雄先生」の横断幕を持って空港に出迎えてくれた。久しぶりの雨ということで現地の人たちは喜んでいた。日照りが続いて水不足が心配されていたとか。天気が悪いせいか日本よりも少し寒いという気がした。バスに乗ってまずワールドカップサッカーが行われるサンパウロに建設中のスタジアムを見に行った。6月12日から始まるが、まだスタンドや駐車場などもあまり出来ておらず間に合うのか心配してしまう。しかしその日が近づくと24時間態勢で突貫工事が始まるそうだ。建設作業員も時間外手当などを多くもらえるとかで、ブラジルの建設工事はいつもギリギリにならないと始まらないという。


昼食を「伴(ばん)」という日本食レストランでいただいた。日本にいるような気がしながらの食事だった。日本人の店主も挨拶に来てくれた。まあまあの美味しい味で、ビールを飲みながらサンパウロの日本会議の方々に歓迎していただき、極めてアットホームな感じでひと時をすごすことが出来た。その後移民資料館を見学に行った。106年になる日本からの移民の歴史を展示している資料館であり日伯文化協会という民間団体が経営しているということであった。先人たちのブラジル開拓にかける情熱が伝わってきた。今の日本国民に未知の世界でこのようなことが出来るのだろうかと思いながら見学をした。


その後、車中からサンパウロ市内を見学し、ホテルにチェックインしたのは午後5時過ぎだった。少し休憩をして18時半からの夕食会に臨んだ。サンパウロの日本料理店「新鳥」で行われた。日本会議の方々に加え、ブラジル空軍の参謀長、日系の斉藤大将ご夫妻、退役空軍少将柴田氏ご夫妻が1,000kmも離れたブラジリアからわざわざ駆けつけてくれた。斉藤大将は、既にブラジル空軍の参謀長を8年もやっている。二人の大統領に仕えているが、信任が厚いようで、既に72歳であるが辞めさせてもらえないと言っていた。参謀長は大統領が指名するそうだ。実は斉藤大将は2008年、私が空幕長のときにブラジルへの日本人移民開始100周年記念行事で来日された。その時夕食会や日本国内の移動で私が斉藤大将の支援を行ったこともあり、6年ぶりの再会となった。その時、柴田少将も同行していたことで彼も夕食会に参加してくれた。国際情勢や日伯の政治状況などを話しながら、6年前の日本訪問の話などで大いに盛り上がる楽しい夕食会になった。


5月25日(土)
朝早くからイビラプエラ公園にある先没開拓者の慰霊碑にお参りをした。広々としたきれいな公園である。先没開拓者とは戦前戦後のブラジル移民で、既になくなっている人たちのことである。この慰霊碑は約40年前に造られたものであり、その後も亡くなられた方々を逐次お祭祀りしている。田中角栄元首相がブラジル訪問の際、署名したという署名が慰霊碑に刻まれている。


慰霊碑参拝のあとサンパウロ市営の公設市場を見学に行った。珍しい果物や魚介類が山のように積まれていた。非常に活気のある市場である。その後11時ごろからサンパウロ市の福島県人会を訪問した。会長はいわき市出身の永山八郎氏という方だった。サンパウロで日本食レストランを数軒経営しておられるそうだ。会員の中に私の郷里の郡山市田村町出身の小島さんという方がおられた。私の父などとも面識があるそうだ。昔の村の話で盛り上がってしまった。児島さんの姪は私と小学校、中学校の同級生である。福島県人会は、年に2度ほどお祭り的に喜多方ラーメンを振舞う日があるそうだが、当日がその日に当たり、サンパウロで喜多方ラーメンをご馳走になってしまった。


その後ホテルに帰り着替えをして、14時30分からの講演会に臨んだ。講演は愛知県人会の建物で行われた。450人収容できる日系の建物では一番大きいという理由である。会場はほぼ満員だった。私はいつもの通り日本は自虐史観を離れ、自分の国は自分で守るべきだ、すぐには出来ないが、その方向に向けて行動を開始しなければならないと訴えた。多くの人たちの共感を得たようであった。講演終了後の懇親会でも多くの人たちが心強いとか、政治家になって欲しいとか言っておられた。


5月26日(月)
朝8時にホテルを出て、バスでブラジルの誇るエンブラエルという航空機製造会社を見学に行った。サンパウロからは100kmほど離れている。通常は見学など出来ないが、これも斉藤大将の計らいで、会社側は私が現役空幕長であるかのような待遇をしてくれた。エンブラエルは主として小型、中型の旅客機を製造している。一部ブラジル空軍やアメリカ空軍向けの練習機も製造している。日本の三菱重工や川崎重工などの製造現場と変わらない光景があった。その後エンブラエル社の近くにある航空宇宙研究所に行って、副所長のワーデン中将らと会食の席が設けられた。昼食は鮭料理のブラジル食であったがなかなか美味しかった。その後、研究所に併設されているITAと呼ばれる学校の説明を受けた。大学と大学院大学を併せたような学校である。入学試験があり、100倍もの競争率となる超難関の学校で、ブラジル全土から優秀な学生が集まってくるそうだ。ここを卒業して軍に入る者もいるし、民間に出ていく者もいる。昔の日本の陸軍士官学校や海軍兵学校のような性格も持っており、ブラジル一のエリート校であるそうだ。因みにワーデン中将もITAの卒業生である。


それらの研修が終わり、サンパウロに戻り、19時の飛行機でサンパウロから隣のパラナ州の州都クリチバを経由してフォス・ド・イグアス空港に向かった。翌日イグアスの滝を見るためである。まっすぐ行ければ1時間と少しの距離であるが、クリチバで2時間以上も待ち時間があり、到着したのは夜の11時半頃であった。


5月27日(火)
朝8時にホテルを出発して、丸一日かけて巨大なイグアスの滝を見て回った。一日で20km以上歩くことになった。最初はタクシーでブラジルからアルゼンチンに入り、アルゼンチン側から滝を見た。上と下から滝を見たがその壮大さに圧倒されるばかりである。丁度、雨が降った後で水量も多く、また泥水で濁っており、写真などで見るきれいな水ばかりではなく、白い水と泥水が混じった滝であった。大迫力で迫ってくる。9時から14時まで約5時間アルゼンチンに滞在した後、タクシーに乗ってブラジル側の滝の入り口まで行った。そこから滝のすぐそばまで行くバスに乗り、今度はブラジル側からイグアスの滝を見た。滝の全景はブラジル側から見たほうがよく分かるようだ。約2kmに亘り滝が流れ落ちている。あれだけの水が枯れることなく流れている。恐らく1秒間に何千トンもの水が流れ落ちている。自然の力の偉大さに感動する。


滝の見学が終わり、近くにある大きな鳥類動物園に行った。約1時間で珍しい鳥たちを見て回った。ブラジルの国鳥でトッカーノと呼ばれる黄色のくちばしの長い鳥も多数いた。人なつっこく人が近づいてもちっとも怖がらない。最後は私の腕に乗った写真も撮影した。動物園の中は鳥たちの鳴き声でとてもにぎやかである。それらのツアーを終えて19時半の飛行機で、ロンドリーナと呼ばれる町に移動することになった。翌日午前9時からロンドリーナ日本人会での講演が予定されていた。これもまっすぐ行けば1時間の距離であるが、前日のクリチバ経由で、待ち時間が長く到着したのは午前0時を回っていた。日本では騒音苦情がありそんな時間には飛行機は飛べない。ベッドに入るのは前日と同じ午前1時を回っていた。


5月28日(水)
9時から約2時間ロンドリーナ日本人会約50名に対し講演をした。皆さん祖国日本の発展を願っており、ブラジルにおいても祖国が強ければ誇りを持って生きることが出来ると言っていた。祖国がかつて侵略戦争をしたとか残虐行為をしたとかいうことでは、出自を隠して生きるようなことになるという言葉が印象的であった。


写真撮影などをして11時に現地を離れロンドリーナ空港からクリチバ空港に向かうことになった。12時15分出発予定の航空機の到着が遅れ、13時過ぎの出発となった。しかしクリチバ経由でサンパウロに帰るので、当初からクリチバで3時間半の待ち時間が予定されており問題はなかった。ロンドリーナからまっすぐサンパウロに帰れば1時間しかかからないが、サンパウロに到着したのは18時近かった。何と通常1時間の時間が6時間近くかかってしまったことになる。この日、21時発のニューヨーク行きのDL472便に乗ることになっていた。サンパウロ空港には24日に出迎えてくれた人たち十数名が見送りに来てくれた。空港の待合室でビールを飲みながら、田母神講演会は大成功だったという話で盛り上がった。サンパウロ新聞、現地の日経新聞でも私の講演会の模様が大きく取り上げられていた。この後、ニューヨーク経由で5月31日夕刻成田空港に到着した。


最後に、ブラジルは飛行機で丸一日かかる地球の反対側にある。サンパウロと東京の時差は丁度12時間である。いま日系人は一世から六世まで160万人がブラジルにいるそうだ。そのうち100万人はサンパウロ州に住んでおり、うち60万人がサンパウロ市に住んでいる。大変親日的な国で人種差別も全くなく、日系人はブラジル各所でそれぞれ高い地位を得ている人も多い。5月26日に訪問したブラジル一の超難関ITAの先生や生徒の20%は日系人であるという。ブラジルの人口に占める日系人の割合は0.6%くらいであるというから、現地の日系人の頑張りが分かろうというものだ。


サンパウロの町はどこにいっても人が多く、町に活気がある。ワールドカップサッカーが間もなく始まることもあるのか、賑やかである。楽天的なブラジルの人たちの性格が現われているのかもしれない。日本的演歌の世界はブラジルには不似合いのようだ。現地の日系人の方々は一様に祖国日本のことを心配しておられた。日本が強く尊敬される国になってくれることが彼らの願いである。中国に尖閣で脅かされたり、韓国からありもしなかった慰安婦強制連行問題で苛められている日本に、何とかこれを跳ね除ける様な強い国になって欲しいと口々に言っていた。日系人の人たちは、毎年皇居の勤労奉仕 に参加している。それほど天皇陛下を中心とする祖国日本を愛している。


戦前戦後を通じて25万人の移民一世がブラジルに渡ったそうであるが、現在逆にブラジルの日系二世以下の人たちが約25万人日本に来て仕事をしているそうだ。サッカー解説で有名なセルジオ越後氏などがその代表である。サンパウロは世界第4位の1,200万人の人口を擁する大都市であるが、東京のようなきれいな町ではない。道路もでこぼこが多く、建物も古いまま手入れがされていないものが多い。


ホテルにはスリッパがない。テッシュペーパーもない。歯ブラシもアメリカと同じように置いていない。タオルはアメリカと同じように大きなフェイスタオルとバスタオルがある。アメリカとの違いは小さなハンドタオルがなく、入浴時に身体を洗うのに使えるタオルがない。フェイスタオルは大きすぎて石鹸も十分行き渡らせることが難しい。ウオッシュレットは、東南アジア諸国と同じような水鉄砲式のものがトイレのそばについている。私は照準が悪く、トイレ内を水浸しにしてしまって、後片付けでルームサービスのお世話になることになってしまった。


いずれにしても大変充実した旅であった。顔見知りの人もいっぱい出来たので、地球の反対側にあるブラジルが急に近くなってしまった。機会があれば再び訪問して皆さんにお会いしたいと思っている。