タカハシ〔高橋〕主任の雑感ブログ -5ページ目

二連チャン

2日連続で午前さま。
酒ばっか、呑んでいる週末です。
酒って美味い。

今日は久しぶりに若い女性たちと呑みましたが、近くのテーブルの仕事かえりの奴らが変に盛り上がって、うるさすぎでした。ええ年して、ジャンケンで一気飲みなんかすなや。

いつどこで自分が見られているかわかりません。だいぶ前に、とある会社のマークをつけた車の営業マンがタバコを投げ捨てたのを見ました。
それ以来、絶対にそんな会社には頼まないと心に誓っています。

今日ひどく騒いでいたサラリーマン達よ、外にいる限り仕事を意識して行動しよう。
社会人としての鉄則です。

ほぼ貸し切りの状態ならまだしも、そこそこ混んでいたのだ。場を弁えるべきだぞ。

と、ここでこんな偉そうなこといっても、本人達にそれを言えなかったは私は、ほんとに小市民でした。


愛という字は真心

恋という字は下心

とはよく言ったもんです。まさに、当意即妙。
最初は下心から、だんだん真心に変わってしまうから恋愛。

逢えなくなった人のことは忘れた方がいいんでしょう。かのシェークスピアもロミオとジュリエットのなかで、恋の傷を癒す薬は新しい恋みたいなことをのたまわっております。

心の真ん中と書いて真心。だから、なかなか心の外に行けやしません。

あの人のことが少しずつ心の外に行っているのを感じていますが、それが嬉しいことのようで、寂しいことのようでもあり。

私にとっての薬は、今のところ酒です。
とほほ。

アカウンタビリティと金太郎飴

少し前に流行った言葉、アカウンタビリティ、いわゆる説明責任。
テレビやマスコミで、なぜ人を殺してはいけないのかというテーマがよく取り扱われ、説明責任を問うてましたね。クレーマーが勢いを得たのもこの頃からでしょう。
その時はまだ大学生で、自分も血気盛んだったというか、自分を持っていなかったのでしょう。哲学的な議論したりして、友人と本気で悩んだ記憶があります。それはそれで楽しかったです。

でも今はそんなことに悩みはしません。悩むだけの体力がないというか、そのことを考える作業に意義を見出せません。結局、社会で生きていく中でダメなものはダメなんです。会津藩の什の掟にしかり、ならぬことはならぬのです。それが社会で生きることなのです。

我々の仕事でもよく説明責任がよく問われ、さらにコンプライアンスなるものも求められます。コンプライアンスは諸刃の剣で、こちらの都合に合えば大きな武器になりますが、相手の都合に合えば、不倶戴天の敵となります。

話をもどしましょう。

今、私の仕事では、思春期のお客様やその保護者の『なぜ?』というクレームじみた問いが増えました。その反面、それにうまく答えることができるスタッフが少ないのが現状です。問われて返せず沈黙してしまうと、相手の思うツボです。

うまく答えると敢えて書いたのは、その問いには哲学的に深遠な答えはあまり必要ないからです。要するにダメなものはダメなんです。

一番必要なのは、説得力です。つまり、自分の考えを相手が納得できるように、肉付けしながら伝えることです。さらにコンプライアンスが使えればなお良い。難しいことですが。
その説得力の基本はやはり、信念を貫き通す毅然としたぶれない態度と相手の心を開かせるための自己開示ではないでしょうか。その次に話術でしょう。巧言令色ではいけません。
そうすれば、クレームの場合は相手が最悪納得しなくても、諦めてくれます。

アカウンタビリティは説明責任と訳されますが、原義は説明できること、説明できる能力でしょう。自分の責任をはたすことは人間として当然ですが、責任という言葉とコンプライアンスの強力タッグや、さらにその先にそびえる訴訟に萎縮し、自らの説明できる能力を押し殺し、金太郎飴的な対応ばかりになってしまっているのではないでしょうか。誰でもできるのは確かにいいことですが。

私はこれを、人間のチェーン店化と呼んでいます。これは良いことなのでしょうか?人間チェーン店でも、店ごとに味が微妙にでも違えばまだしも、味までそろえられると寂しいですね。