泰山、その名は古より大地に響き渡り、天と地を結ぶ霊峰として崇められてきた。蘭陵金氏の領地にそびえ立つこの山は、道教、仏教、仙門の者たちにとって、修行と悟りの場である。朝露に濡れ、夕日に照らされ、数多の修行者が訪れる。彼らは、山の気を吸い、霊気を求め、心身を清めるために長い道を登る。
鎮魂祭は、山の麓、約3合目付近にある斂芳尊の墓所でされる。彼の亡骸はこの地下深くに眠っている。通常、故人宗主儀式は他家を招いて盛大にされるが、彼が引き起こした事件のため、その儀式は、蘭陵金氏の身内のみが集う、内省的なものとして執り行われる。ただ故人の魂が安らかに眠り、再びこの世に戻って悪をなすことがないように、慰めと祈りを捧げることにある。
暁光が空を染め上げる中、御剣をした魏無羨と藍忘機は、泰山を目指していた。彼らの姿は朝のしじまの中に溶け込み、新しい日の光が山々を曙色に照らし、二人はその光を受けながら、山へ急ぎ向かった
「なあ、らんじゃん。江澄の言う通り、暗殺ということは大人数では仕掛けてこないだろうな。」
御剣の動きに合わせていうと
「敵も隠密裏に始末したいのであろうが、陰虎符を使うというのが気にかかる」
声に冷静さと深い洞察が宿っているかのように、悠然と答えた
魏無羨はその声を低め続けた
「金光瑶が使った陰虎符なら、威力は前の乱葬崗と同じくらいだろう。あの陰虎符が何回使えば壊れるかはわからないけどな」
霧が立ち込める中、泰山の山頂が神秘的な威厳をもって姿を現した。二人は、山の麓で剣をおり、一歩一歩邪気や人影を調べながら、慎重に目的の場所を目指した。相手の人数と凶屍の数を読み、それを上回る数の雲夢江氏の門弟を出陣させる。もし読みが外れて敵がそれを上回るなら、この辺りからすでに殺気を感じるはずだが殺気も邪気もなかった。
(寄せ手の数は読み通りか)彼らの心が少し軽くなった。
鎮魂祭の場所に足を踏み入れた二人は、無数の鎮山石獣の向こうに江澄と金陵がすでに待っているのを見つけた。その時、山の影が動き、数十人の槍を持った僧兵たちが姿を現した。槍先は鋭く光り、それは底知れぬ冷たさを感じさせた。次に無数の弓が彼ら目指して飛んできた。矢は風を断ち切り、目にも止まらぬ速さで迫ってくる。藍忘機は敏捷に身をかわし、柄から飛び出した避塵が空を舞い、藍色の光を放ちながら僧兵を蹴散らし、轟々と鳴り響く琴の音が岩肌に響き渡り矢を落とした。その動きは、空気中に美しい波紋を描き、周囲を震撼させるほどの威力を持っていた。江澄は、手の紫電を蛇のように振るい、閃光のように空を切り裂き、周囲の空気を震わせ弓を落とした。紫の波が茂みから溢れ出るように、雲夢江氏の門弟たちが一斉に姿を現した。彼らは紫色の校服を身にまとい、堅固な布陣を組み、剣を前に構えて生きた盾となり金陵を守っていた。蘭陵金氏の門弟たちの姿は、戦いのなかで散り散りになっていた。江澄は彼らの中に間者がいることを疑い、金陵に沈黙するよう命じていたため、何も知らない彼らの一体感は崩れ、戦う者は必死の形相で剣を振るい、逃げる者は恐怖に駆られて四方八方へと散っていった。西から僧兵の倍ほどの凶屍たちがその目を虚空を見つめ、肌は蒼白で前進してきた。
(しまった、この中の誰かが陰虎符を使った。とにかく取り上げなければ)
魏無羨は凶屍の群れの前に踏み出し、剣を一閃させ、肉を切り裂く音を響かせながら、冷静な眼差しで次々と迫る敵を見据え、彼はまるで舞を踊るかのようにひらひらと敵を倒していった。その時、彼の視線が一人の僧侶が懐に手を入れているのをとらえた。
(陰虎符を持っているのはこの男だ。)
一瞬のうちに、彼の剣・随便が赤い光を帯びて飛び、僧侶の手首を切り落とした。血しぶきが高く舞い上がり、悲鳴が山々に反響する。手から滑り落ちた陰虎符が地面に落ち、魏無羨は嵐のように素早く動き、陰虎符を掴み、胸の中にしまい込んだ。血の匂いがあたり一面の空気を支配し、武器が交差する音は鋭く、琴の旋律と剣の衝突が響き渡たり、紫電の雷光が天を紫に染め上げる。命をかけた戦いは、しかし確実に僧兵たちをジリジリと追い詰めていった。
「もうすぐ終わる」
江澄はつぶやいた。彼の髪は汗で濡れていた。周囲には倒れた僧兵たちの屍が横たわり、むせるような血の匂いで満たされている。凶屍の群れは次々と倒れていく。彼らの怨念や邪念は空気中に溶け出し、灰となってはらはらと地面に舞い降り、動かなった凶屍たちはただの残骸になっていた。
風が吹き抜け、木々の葉がざわめいた。藍忘機は、無言のまま避塵を振るい、その刃から戦いの血を払い落としていた。彼の所作は優雅ででありながらも、命のやり取りの余韻を帯びている。
突然の沈黙が破られ、空気が震え始めた。金陵の周りには、不穏な雰囲気が漂い始める。数人の僧兵が立ち上がり、力強い声で仏教の呪文を唱え始めた。彼らの声は、梵字の呪文と共に響き渡る。魏無羨は、空中に浮かぶ光り輝く梵字を目にした。その光り輝く文字は竜巻のように金陵の方向へと飛んでいく。
(あぶない!!)
その瞬間、彼は流星のごとく金陵に向かって飛びかかり、地面に押し倒す。息を呑む間もなく、魏無羨は強烈な衝撃を胸元に受け、懐の中の陰虎符がえんじ色の炎と炸裂音ともに砕け散り、後ろに吹き飛ばされた。全身に激しい痛みが走る。金陵を守るために身を挺した彼が、呪文の直撃を受けてしまったのだ。彼は力尽き、その場に倒れ込む。彼の意識は朦朧とし、周囲の声も遠く感じられる

白く深い靄が、魏無羨の意識を密やかに包み込む。彼はゆっくり歩いている。遠くに微かな心地よい光があり、まるでこちらに向かって手招きしているようである。
「アーシェ・・・・阿羨・・・」
「姉さん。姉さんなの…」
ぬくもりのある声が聞こえる。魏無羨は、その光に導かれるように、幽冥の中を走った。彼の足は自然と速くなり、心は切ない期待で満たされる。そして、そこには懐かしく、幻のように儚い江厭離が、彼を待っていた。
「阿羨・・・阿凌と阿澄のこと守ってくれてありがとう・・・でもまだここにきてはだめよ」
彼女の言葉は、慈愛に満ち、魏無羨の心を穏やかにする。
「どうして、せっかく会えたのに。姉さん怒っているの?羨羨はここにいたい。」
魏無羨の声は震えていた。彼はこの場所を離れたくない。
「阿羨。怒っていないわ。あなたはもう十分みんなに尽くしたわ。もう自分を犠牲にしてはだめ。あなたには待っている人がいるのよ、その人を泣かしてはいけないわ。さぁ帰りなさい。」
彼女の声は、白い闇に凛と響き渡った。魏無羨の心に深く響き、彼の脳裏を揺さぶる。彼の手は、その声を掴もうと空中を探るが、触れることはできない。
「姉さん。姉さん・・・姉さん・・・・」

「ウェイン・ウェイン・・・・」
という呼び声が、魏無羨の意識を引き戻した。頭は重く、まわるようなめまいに襲われたが、目を開けるとそこには藍忘機がいた。彼の琥珀色の瞳は、疲労と憂慮で曇りながらも、魏無羨への深い愛情を隠し持っていた。
「ここは?金陵は?」
魏無羨は目を覚まし、周囲を見渡しながら困惑して尋ねた。藍忘機は、安堵と焦燥を内に秘めつつも、落ち着いて答えた。
「君は金陵を守るために、僧兵の呪文を受けたんだ。その呪文は陰虎符によって跳ね返された。もし陰虎符がなかったら、君は…」
彼は言葉を震わせ、それ以上は語りきれなかった。 魏無羨はその話を聞き、金陵が無事であることに心からほっとした。 藍忘機の眼差しは、過去のいたみを映し出す鏡のように、深い感情の波を映していた。
「あの後どうなった?僧兵たちはどうした?陰虎符が呪文を跳ね返した?そんな・・・」
陰虎符が跳ね返したという予期せぬ答えに、彼は言葉を失った。邪をもって邪を制すということなのか・・仏教徒の使う呪文は仙門で使う呪文と違い、さすがの彼でも知らないことが多い。しかし、彼の手によって生み出されし陰虎符が、かつての彼を滅ぼし、今の彼を救うという、因果応報、運命の皮肉とも言えるだろう。
「生き残り、自害しなかった僧兵たちの中から、数人を捕らえることができた。江宗主が彼らを蓮花塢へ連れて行き、尋問を進めているところだ。彼らは泰山にある龍法寺の弟子たちのようだが、法界院主は関与を全て否定している。金光瑶とは一部の門弟が関係していたのかも知れぬと、金光瑶の財宝の行方も全く預かり知らぬことと、知らぬ存ぜぬということだ」
藍忘機が低く抑えた声で答える。
「ありえないな。金光瑶は東瀛にわたるつもりだったんだよな、有り金全部もっていこうとするはずだ。あいつらが陰虎符を持っていたなら、持ち逃げしようとした財宝も彼らの手にあるはずだ。それは決して少くはない。法界院主が知らぬはずはない。しかし、否定している限り、証拠はない。江澄が連れかえった僧兵も下っ端なら何も知らないだろう。何かを知っているものならとっくに自害しているだろうからな。とかげのしっぽ切りか・・・しかし、金陵を守るために何か策は必要だな・・・」
魏無羨は冷たい手を彼の手の中で、息を取り戻すかのように優しく握り返しながら答えた。藍忘機はうっすらと涙を宿した瞳でわずかに俯き、横たわる彼の頬を両手で愛情をこめ包み込むようにして
「しかし・・・また君が危険にさらされるのは私は耐えられない。それだけは忘れるな」
と告げた。二人の唇が触れ合い、静寂に包まれた。それはやさしく、温かく、慈しみあい、幾度となく交わされてきた口づけであった。
「ごめん・・らんじゃん」
彼の手を握り、温もりを感じ、その小指に自分の指を絡めて小さくつぶやいた。

3日間、魏無羨は意識を失っていた。その間、藍忘機は一度も横になることなく、彼のそばに寄り添っていたと藍思追が語っていた。魏無羨が意識を取り戻した後も、彼は一柱香の刻も離れずに彼のそばにいた。呪文が陰虎符によって跳ね返されたときのやけどの痛みを和らげるため、彼は霊力を送り、高級な薬草を塗り、丹薬を飲ませ、さらしを変えていた。やけど以外は回復しているが、魏無羨が静室から出ることを許さなかった。

藍忘機の膝を枕に、魏無羨は心地よい安らぎを感じながら、混沌としたできごとを絶え間なく考えていた。彼の膝は、深い湖のようにゆったりとし、彼のひんやりとした檀香のかぐわしい香りは魏無羨の心をほぐし包み込む。月の光が窓からやんわりと差し込み、二人の姿をぼんやり照らす中で彼はまた思案に耽る。
仙門の世界は、四大仙門を除けば、まるで烏合の衆のように数多くの門派が存在する。それぞれが古い血筋を守り、代々継承される家を持っている。しかし、これらのさまざまな門派を一つに統合することができなければ、彼らは永遠に共通の敵を求め、結束を欠いたままの集団となるに違いない。そうなれば、力を増す仏教宗派との間に、やがて避けられない衝突が生じることになる。今の金陵の立場を安定させるだけなら、金光瑶がしたように3大世家と義兄弟の契りをでも交わせば、差し当たりの均衡ははかれる。蘭陵金氏の内部の反対勢力もしばらくはおとなしくするだろう。しかし、仙門の行く末を考えれば、中小の集団を一つに束ねることが肝要であろう。そのためには、血筋に囚われない、新たな門派を立ち上げることでそれらの世家を統合し、まとめ上げること、それは子孫を残すという肉体的な繋がりをも超えた彼らだけが成し遂げることができる、大義のように思った。
魏無羨は心に秘めた決意を秘めて、そっとに語りかけた。
「らんじゃん・・長い道すじになるかもしれないが、血筋も正道も鬼道にもとらわれない心のありようで結びつく門派を作らないか?」
「心のありようで結びつく門派。それもよいかも知れぬ。しかし、君が私より先に逝くことは許さぬ。今生も次生もだ」
藍忘機の声は揺るぎなく、その言葉は運命を織り上げる強い誓願のようであった。
静かな夜の中で、二人は互いの魂を重さね、確かめ合う。彼らの魂の共鳴は、時を超え、死さえも乗り越え、世が変わろうとも響きあう。
「らんじゃん、剣は剣であり使うも人の正義。その門派は仙門の新しい礎になる」
藍忘機は、魏無羨の言葉に静かに頷き答えた。
「君とともに義を探す、それが天がさだめし私の道」
それは、新たな舞台の幕開けを告げるものであり、その意志は、川が流れるように続いていくだろう。

星が流れ、時が経てど、我々の心は変わらず
「輪廻がいかにまわろうとも、定めし君を見つけ出す。世の中や姿かたちが様(さま)を変えようと、運命(さだめ)がどう絡もうと、君と我はともにある。」
「どんな暗雲が視界を覆うとも、君となら光を見つける。君がそばにいればこの世はすべて美しい」
日が昇り沈みまた日が昇る、月は満ち月は欠け、潮が満ち潮が引き、月も潮もまた満る
生命の輪と我々の一途な協奏に決して終わりはない。