寒風が吹く「腊月」(ろうげつ)の初旬に彼らは雲深不知処につき、二人は門弟より新しい静室に案内された。その部屋は藍忘機の母上が使っていた居室を広げたもので、2人で手狭になった前の部屋に一間足した広さがある。この裏山にほど近い部屋は彼の幼い頃の母の思い出がふかく刻まれたところであり、夏には中庭の横に自生したりんどうの花が咲き、亥の刻をすぎた二人の振るまいで余人の睡眠を妨げることのない処であった。
「ほとんど、荷物は運ばれているようだな。すぐに寝れるように整えられているぞ、おまえんちの門弟はさすがだな」
と眠そうにあくびをし部屋を見渡しながら、魏無羨がいう。
「思追が采配したらしい。彼は君が結丹したことがよほどうれしかったようだ」
白い玉の香炉にすでに門弟が焚いてくれていた白檀に丁子が調合された檀香を懐かしそうに嗅ぎながら、穏やかな口調で藍忘機が言った。白檀は瞑想でも使われる香で、それに丁子で少し刺激を加えた匂いは藍忘機の独特の檀香で、そのひんやりした香りはかぐわしく、懐かしく、帰ってきたことを感じさせる。
「そうか・・お前は途中の宿場で文をだしたんだったな。金丹のことはみんな知っているってことか」
そう言いながら、もう寝たいと肩を落として寝所に向かう魏無羨に
「君は沐浴しないとだめ」
門弟が持ってきた湯を風呂桶に注ぎながら、サイカチ(石鹸の代わりに使う豆科の植物)と手ぬぐいを用意し、諭すように言った。魏無羨が結丹をした後も、彼の慎重さは変わらず、常に彼の体に気を配り、ささいな変化にも敏感に反応した。その姿はまるで邪推であっても病であっても彼の命は自分で守るという悲壮感に似ていた。
夕餉は雲深不知処に帰る前、彩衣鎮ですましてきたので、すぐに横になりたい魏無羨だが、しかたない・・と下衣を脱ぎ、桶の中に体を沈ますと身をまかせてあらってもらった。
「金丹ができても、修練しないとな・・俺は前世、努力とは無縁の奇才だったから、今世でその分しないといけないんだな」
少々うっとうしいという顔をし、彼はサイカチで自分の体をこする白く滑らかな藍忘機の手に自分の指を絡めながらつぶやいた。
「まあ・・そういうな、仙草もあるし、君は神(魂)についている修為は高いのだから、武術をして体を鍛えればよい」
と情人の体をふき、寝着を着せて、柳眉を少しあげながら、涼しい顔をして彼は言った。
確かに・・姑蘇藍氏くらいの仙門になると金丹の熟成を早める高級丹薬と仙芝・霊芝・雪蓮などの高級薬草が十分ある。金持ちの仙門の子弟の結丹が早いのも幼少時分からそういった代物を与えられるからという事情もあるくらいだ。剣術や弓の修行なら、魏無羨にとって苦痛ではない。
ふとそんな思いが心をよぎり、藍忘機に抱きかかえられて寝所へと運ばれる間、彼の首に腕を優しく巻き付けた。そして、顔をゆっくりと引き寄せ、冬の少し乾いた唇に口づけをした。
二人が雲深不知処に帰り数日が過ぎた。しばらくは藍思追たちも旅の疲れに気を使い、静かにしていた。しかし、我慢できなくなった藍思追たちは、魏無羨を夜狩りに誘ってきた。
「魏先輩。そろそろ夜狩りを再開するというのはどうでしょう。先輩ももう御剣もできるのですし、少し遠出でもよいかと」
聡明そうな目をして遠慮がちにいう。
「そうだな。夜狩りもそうだが、他の修練も始めないとな」
と誘われたことが満更でもないようで、ひそかに笑って答えた。
「しかし、今日はらんじゃんが夕餉の支度をしているから、明日からだな」
「含光君は日々支度をされているのですか?」
子どものような無邪気さで好奇心を持って尋ねる
「そうなんだよ、あいつは俺の金丹熟成の食事を作っていて、何でも霊力の高い薬膳の汁物を作るらしい」
「魏先輩のために・・霊力の高い薬膳?」
目を見開いて再度尋ねた。その声には、予期せぬ返答に対するささやかな驚きが含まれていた。
「そう・・霊芝や丹砂なんかを使うらしい・・酒の代わにり龍井茶や菊花茶も飲ませられる」
魏無羨は瀟洒な顔つきで、余計な感情を交えることなく淡々と答えた。
夷陵老祖と恐れられ、無頼で自由奔放な鬼道の祖師が藍忘機に素直に従っていることにびっくりしたが
「魏先輩。それでは明日」
と坂を上がってくる含光君の姿遠くに見つけ、拱手をして足早にその場を離れた。
藍思追が行き、中庭で抜剣の構えをしていると手に夕餉の重を下げた藍忘機が近づいてきた。
「稽古も瞑想も何か目当てを定めないと意欲がわかないな」
「それならばよいものがある、今度の 百鳳山の巻き狩りにでてはどうだ。君がでるなら私もでよう」
百鳳山の巻き狩りは蘭陵金氏が毎年秋に催している狩猟大会である。藍忘機は金光瑶が宗主の間、金麟台での催しは全く参加していなかったが、事件後に金陵が宗主になり、若い修士に交じり順位を競うつもりはないものの、魏無羨の修行に付き合うのも悪くないと思った。
「それはいつだ?お前はまた不埒なことを考えているのではないだろうな」
と随便をくるりと軽やかに回し柄に戻しながらおどけて答えた。
「陽月だ・・君の修練の時間は少しある」
とすでに行くと決めているようで迷いのない響きで答えた。
「そうだな。陽月であれば気候もよいし、金陵に会うのも悪くないな」
と中庭から静室に向けだらだらと歩き出した魏無羨が答えた。
藍忘機が作る汁物は、家宴で出される食前の汁物と同じ香りと味わいを持ちながら、かつてほど苦味は感じられない。汁物以外の料理は、魏無羨の好みに合わせて丁寧に作られていた。ただ、この汁物だけは毎回欠かさずに飲む必要があるようだ。 夕餉を終え、沐浴を済ませ、二人は睦言を交わし始める。優しさに包まれながら、何度もそっと重なり合う彼らは、時を経ても変わらない愛を、静かに紡ぎ出していた。

陽月の清々しい朝、百鳳山は巻き狩りのために賑わっていた。各仙門の修士たちが集まり、空は彼らの気合いで震えているかのようだった。今回の競技に参加しない藍曦臣、聶懐桑、そして年配の仙門の宗主たちは一番高い観猟台の横に座り、修士たちに恒例の花やつぼみが投げられる様子を見守っていた。その花々をよけながら、姑蘇藍氏の伝統的な白い校服を身にまとった魏無羨と藍忘機が駿馬にまたがり巻雲門がついた白い抹額をなびかせながら、二人並んで進む。この校服は藍忘機がこの日の魏無羨のために特別に用意したものだ。現世の魏無羨の顔は、前世の顔より野性味はかけるものの、それでも秀麗で端正な顔立ちで、藍氏の双璧と言われた藍忘機に劣らず、仙子たちから注目を集めた。しかし、藍忘機の透き通る氷の彫刻のような優美な顔からは似つかわしくない、するどく射るような、厳しい視線を感じ、女性たちは彼らが道侶であることを思い出し、気まずそうに視線を外した。そのあとを、若い戦士たちは頬を紅潮させ姿勢を正しくゆっくりと騎馬に跨がり、剣を腰に佩き、弓を背負い入場する。観猟台の女性たちの熱い視線は騎馬に跨がる藍思追や藍景儀達の若い修士陣に集まった。
各仙門の騎馬陣たちがすべて入場し開始の儀が終わり、仙門の若い修士たちは競技を始めた。魏無羨と藍忘機は競技の順位に参加していなかったため、ゆっくりと山を歩きながら獲物を弓で射た。前世の彼は弓の名手で優れた成績を収めていたが今は的は外さないものの、藍忘機に遅れを取っている。
「やっぱり莫玄羽の体はだめだな。あんなに修練したのに全然だめだ」
と、魏無羨はあきれた声で残念そうに言った。するとはこらえ性のない子供にいうように、
「君がダメだと言ったなら、他のもっと鍛錬している修士がかわいそうだろう」
と冷静に反論した。
ほどなくして、二人は初めて口づけを交わした場所にやってきた。そこは変わらず、秋の風が運ぶ、さわやかで甘い香りが漂う橙色の金木犀の花が咲き、その小さな花弁から広がる香りは、秋の日差しと共に、心地よい懐かしさを感じさせた。
「今日はお前の抹額かせよ」
というと素早く藍忘機の抹額を取り上げ、自分の目を隠し木によりかかった。
「お前が最初にやったときみたいにしてみて」
馴染みのあるしっとりした唇が、彼の口を覆いながら、もう一方の手をねじ上げてた。二人の唇に過ぎ去りし日々の甘美な記憶が蘇り、懐かしむように何度も何度もそっとかさねた。しばらくすると離れた谷合に人の声が聞こえ彼らはさっと茂みに身を隠した。
その3人はの金色で胸には牡丹紋があしらわれている蘭陵金氏の金星雪浪袍をきていた。
「斂芳尊の鎮魂祭で、例の計画を実行するそうだな」
と一番背の高い者が言った。
「ああ、斂芳尊と親しかったやつらが陰虎符をもっている。俺ら金麟台の連中は何もを知らない。情報をながすだけで奴らが行動を起こす」
ともう一人が付け加えた。
今まで黙っていた背の低い男が、重々しく言葉を続けた。
「これで金陵もあと2日の命だ。仙門と仏教徒との間でいさかいが起こるかもしれないな」
魏無羨は3人の会話を耳にして、彼らの前に飛び出そうとした瞬間、藍忘機が彼の腕を掴んで止めた。彼は動けずにその場に留まった。3人が通りすぎたあと掴んだ腕をはなし、深く響く声で言った
「彼らはただの手下だ。捕まえても、真の黒幕と陰虎符には辿り着けない」
「2日後か・・・時間がないな」
と魏無羨は思案顔でつぶやき、一瞬の静寂を経て、覚悟を固めた様子で言葉を続けた
「鎮魂祭の罠にはまってやるしかない。」
鎮魂祭は蘭陵金氏の管轄領地の泰山で行われる。泰山は樹齢千年以上を超える古木に囲まれ、雄大な自然は古くから修行の場所でも知られる山であった。
魏無羨は金光瑶の観音廟の事件の時に東瀛にわたると言っていたことを思い出した。
「らんじゃん・・あの事件の時、金光瑶はたしか、時間がない・・東瀛にわたる。陰虎符は今もっていないといっていたな」
「そうだ」
と記憶の糸をたぐりよせはっきりと言った。
「ということは、その仏教徒たちが東瀛にわたる手引きをしていて、手中に陰虎符を持って、今回の計画を練ったということだな」
考えをまとめながら、彼らは急いで江澄と金陵を探したが、すでに競技に参加している彼らをなかなか見つけることができなかった。
巻き狩りを終えた、江澄と金陵を探しだした頃は 百鳳山にはもう夕暮れが迫っていた。彼らは金麟台の芳菲殿に場所を移し鎮魂祭について金陵から話をきいた。金陵は自分が暗殺者に狙われているとはにわかに信じられない模様で狼狽し慌てていた。江澄は金陵の不安をなぐさめるように冷静に口を開いた。
「お前たちの話では、斂芳尊を逃げる計画を手伝っていた、僧兵たちが金陵の暗殺を計画しているということだな」
「そうだ、しかし黒幕も陰虎符の行方も調べようにも時間がない」
と江澄の目をまっすぐ見つめ魏無羨が答えた。
「では・・・江氏と蘭陵金氏とお前らで敵を迎えうつしかないということか」
江澄は焦燥感を帯びた声でいった。泰山にはいくつかの仏教寺院があり、宗派は武術・呪術に優れた独自の僧兵を寺院に抱えている。金陵によると鎮魂祭は30人程度の規模の儀式で蘭陵金氏の身内だけで行われるということであった。
「泰山で金陵を狙うということはそこにある寺院の宗派だろうな」
魏無羨は乾いた声で静かにいった。

※次回泰山での対抗攻撃へと続く※