最後に少し、「母性」について考えてみたいと思う。ここで「母性」とカッコをつけているのにはわけがある。昨今、母性という言葉の意味があまりに狭義に解釈されていると思うからである。カッコをつけた「母性」は、父性の反対語ではない。次元が違う。女性や男性という性の違いを超越した、もっと大きな意味を示しているつもりなのだ。

 

次世代を守り、育むことは、あらゆる生命に植え付けられた本能。生きとし生けるすべてのものの営みのメインストリームである。自分たちの命を生かし、次世代につなげるためにこそ、糧を得るのである。それをより確かなものとするために、人間は群れをつくり、むらをつくり、社会をつくり、発展してきたはず。つまり、高度に文明化された社会も、グローバルな経済活動も、もとはといえば「母性」を守るため、「母性」によって作られたはずである。

 

しかしいつしか、糧を得ること自体や、社会や経済を継続させることがメインストリームであると考えられるようになり、子どもを産み、育てることは、メインストリームから外れることであるとされるようになった。本末転倒。完全なる錯覚である。このようないびつな状態のままでいいとはあまり思えない。男性的な価値観が優位になりすぎた結果だろう。だからこそいま、「母性」の台頭が必要不可欠なのだ。

 

男性も傍観者でいてはいけない。本書の中には、「女性は結婚・妊娠・出産・育児を機に、選択を迫られる」という記述を何度かしたが、本来であれば、これらは男女共同のライフイベントである。女性だけが選択を迫られること自体がそもそもおかしい。これからの男性には、たとえば、パートナーの女性が妊娠したとき、彼女にキャリア上のチャンスが巡ってきているのであれば、男性が育児休業を取得して育児を担当し、彼女のキャリアをサポートするなどという柔軟な発想が必要である。

 

「母性」は女性だけにあるのではない。すべての生命に宿された「宿命」だ。男性にももちろんある。グローバル教育やリーダーシップ教育が大事なのはわかるが、パートナーとの二人三脚を想定したライフデザイン教育も健全な社会発展のために、教育においての最重要項目であるとすら思う。これは男女に関係なくである。その意味で、女子校であれ、共学校であれ、男子校であれ、最終的に目指すものは同じである。アプローチが違うだけである。

 

ただし、アプローチが違えば、得られるものはやはり、それぞれ違う。そして、多様性がある社会ほど、弾力性があり、強い。「母性」を受け継いでいくチャンスは広がる。だから、教育には、多様性が必要である。ゆえに、今やマイノリティとなっている「女子校という選択」も「男子校という選択」も、大切にされなければならないのである。

 

2012年11月 おおたとしまさ

 

※拙著『女子校という選択』(日本経済新聞出版社)の「おわりに」より。