「夫も家事は自分でやる前提」で、「ダメ出しの仕方をちょっとは考えてよ。あんまりいわれるとやる気なくなっちゃうよ」というのがヘーベルハウスの「家事ハラ」キャンペーンの主旨だったはず。だけど、世の中の反応は、「夫は家事をやっていない前提」で、「ダメ出しされるから僕たちはやる気をなくして、だから家事をやりません」というダダっ子みたいな男性に対する批判になってしまった。

 

ダメ出しするほうがいけないのか、ダメ出しされてすねちゃうほうがいけないのかという話ではない。ダメだからダメ出しされるなら本人もしょうがないと思えるだろうけど、本人的には「これでOKでしょ」と思っているところ(たとえば一人暮らしのときはそうしていたというような自分のやり方)を頭ごなしに否定されることが嫌なわけで、それは家事に対する必要十分条件の基準が夫婦の間でズレているということ。「ダメ出し」したり、やる気をなくすんじゃなくて、ズレをどう修正するかこそをすりあわせましょうという話であるはずだ。

 

「言い訳ばかりして家のことを何もしないバカ夫がいる」ということに関しては、「その人およびその家族の問題」であり、社会で議論してもしょうがない。社会の中でいくら議論したって、そういうバカ男には馬耳東風だから。基本的には家族の中で話合ってもらいたい話だ。また、たしかにそういう男性は世の中に少なからずいる。それは「困ったちゃん」だと私も思う。しかし、それをもってして「だから男は……」みたいな一般論にするのは違うんじゃないかと思う。

 

まとめれば、私が気になる論点は以上。

 

しかし、この手の議論が盛り上がったときに怖いのは、「男って……」「女って……」というような形で、「顔が見えない相手」に対する攻撃が始まってしまうこと。

 

「顔が見えない相手」を非難することは、「見えない敵」にミサイルを撃ち込むようなものだ。攻撃は情け容赦なくなるし、本来攻撃されるべきでない人たちまで巻き添いになる可能性もある。結果、憎悪ばかりが増大する。国籍で人をくくって非難してみたり、バカにしてみたりするのにも似ている。

 

振り返れば、男女雇用機会均等法で女性が企業社会に進出してきたとき、逆のことがたくさん生じていたはずだ。完全なる男社会に切り込んだ女性たちは、男性たちのやり方を押し付けられた。自分らしいやりかたを試そうとすると、ダメ出しされ、「だから女は……」といわれ、悔し涙を流した人たちもいただろう。耐えられず、そんな男社会に決別した女性も多かったのではないか。いや、今でもそういう状況は完全になくなっているとはとてもいえないだろう。それは間違っていると私は思う。その恨みを、「世の女性たち」が、「世の男性たち」に持ち続けているのだとしたら、私も「世の男性たち」のうちの一人として、「世の女性たちに」謝ることにやぶさかではない。ごめんなさい。

 

しかし実際は、「世の女性たち」にもそれぞれ顔があり、「世の男性たち」にもそれぞれ顔がある。

 

社会的な問題については、「目に見えない敵」ではなく、その「問題」そのものに焦点を当てて、感情論ではなく方法論で、社会として論じよう。個々人としては、「目に見えない敵」を攻撃するのではなく、「目の前の大切な誰か」と相互理解する方法をそれぞれに考えよう。その総和が、結局は社会を変える原動力となるはずだ。一連の「家事ハラ」に関する議論を振り返り、そんなことを感じた。

 

と、私は「目に見えない誰か」に向けて書いている。暑い。