宮城県女川町にある出島は、震災前は次のような様子でした。

  • 人口は約500人
  • 小学校と中学校が各1校ずつあった
  • 診療所が1つあった
  • 黒潮の影響を受ける温暖な気候で、ホヤやカキ、ホタテなどの養殖業が営まれていた
  • リアス式の海岸が続き、「三陸復興国立公園」にも指定されていた

東日本大震災では、津波によって死者・行方不明者は900人以上となり、ほとんどすべての住民が親しい人を失いました。また、地元の水産業も大きな打撃を受けました。

震災後、出島では、本土とつなぐ橋の開通を求める声が高まり、2014年に町が事業主体となって整備事業が開始されました。2024年12月19日に開通した出島大橋により、町の中心部まで車でおよそ15分で行き来できるようになりました。

 

遠からず架かる大橋のすぐ向こうに、出島集落が見えてきた。出島に二つある集落のうち、北側の方だ。東日本大震災(以下、震災)のはるか前、2004年10月に眺めて以来の出島集落だった。その時の集落の様子をはっきり覚えているわけではないが、何かが違う。明らかに違う。

集落に建物はあっても、家が全くないのだ。建物はどれも倉庫や漁業関係の作業小屋のようで、暮らしの気配は全く感じられない。ただ、浮桟橋のゲートには「実現させよう! 出島架橋」、待合所らしきバラックの壁には「つなげ本土に届く橋」と大書され、橋にかける島人たちの熱い想いは、嫌でも伝わってくる。

本土との架橋によって人口が増えた島はない。橋がストローとなって、島の人たちは近隣の都会へ吸い取られてしまう。現実的には、そういうことが多い。また、全国的に人口が減少する中、橋一つで人口減少に歯止めがかかるとも思われない。

しかし、今回の震災のような未曽有の事態が起きた時、本土で橋とつながっているだけでどれだけ心強いことか。せっかくつくられた命綱の橋も、災害によって使えなくなることもある。それも分かっている。

橋ができれば、クルマでこっそりやってきて、島の海の幸を盗んでいく不届き者もいるかもしれない。これまで不要だった人家の鍵が、必要になるかもしれない。それでも、橋がある安心感は何物にも代えがたい。コロナ下の出島では直接確認できなかったが、他の橋が架かった島で、多くの島人がそう口にするのを聞いてきた。

 

人口 - 最盛期は約1800人が暮らしていたが、過疎化や後述する東日本大震災の影響などで2019年11月末時点では77人へ減少している[4]。震災当時の人口は450人