いくつかのブログで拝見した

小学2年生の中村咲紀さんという女の子が、
書いた宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』の読書感想文。

第47回全国小・中学校作文コンクール優秀賞受賞作品だそうですが

素直な人間の精神やエゴ、許す心、人への愛や思いやり
世界のつながり、人や自分自身への受容、自分自身の心が現実を作っていること

色々なことを感じさせてくれる素晴らしい文章だと思いました。


シェアさせて頂きますね。


※ セロ弾きのゴーシュ(あらすじ)

ゴーシュは町の活動写真館の楽団「金星音楽団」でセロ(チェロ)を弾く係。楽団では近く町の音楽会で演奏予定の『第六交響曲』の練習を続けていたが、ゴーシュは下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた。

そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する。

そうした経験を経た後の音楽会本番で「第六交響曲」の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した。ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、「印度の虎狩り」という曲を夢中で演奏する。その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになった。






感想文


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だれも気がついていないけれど、ゴーシュの心の中には、へんなものが
たくさん入っています。

へんなものというのは、その人によってちがうけど、じこまん足だったり、
つよがりだったり、がまんのしすぎだったり、色んなものがあります。

そういうへんなものが心の中に入っていると、本当のじぶんが
ちゃあんと見えません。

ゴーシュは一生けんめいれんしゅうしているつもりだけど本当のじぶんが
ちゃあんと見えていないので、本当のれんしゅうができていないのです。

本当のじぶんをちゃあんと見ないでどんなにがんばっても、
まちがったがんばりかたしかできません。それは、本当のがんばりに
つながりません。

けれども、きせきが起こります。


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ゴーシュはあとになって、この時のことを「おれはおこったんじゃ
なかったんだ」と言っています。

わたしもそうだと思います。

ゴーシュは、本当は、本当のじぶんをしっていたんじゃないかと
思います。

でも、本当のじぶんはとてもひどいので、見ないようにしていたんだと
思います。それなのに、

かっこうにだめなじぶんを見せられて、そのだめなじぶんにカッと
なって、そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思い
ます。


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ゴーシュはひとりぼっちじゃなかったのです。下手でだめだと思っ
ていたセロは、どうぶつたちのびょう気がなおるのでかんしゃ
されていたのです。

ゴーシュの心があたたまります。それでゴーシュは、野ねずみに
優しくできるようになったんだと、わたしは思いました。


びょう気がなおってパンまでもらったのねずみは、鳴いたり、
笑ったり、おじぎをしたりしてかえっていきます。


のねずみは、ゴーシュの心をあたためにやってきたけれど、
ゴーシュのやさしさで、のねずみの心もあたたまったんだと
思います。

これが、心と心をくっつけ合うということです。


みんなひとりぼっちじゃないのはいいなあ。
たすけ合うのはいいなあ。

ゴーシュが、やさしいゴーシュにもどれてよかったなあ。と、
わたしは思いました。


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わたしが、ようちえんの年中のまん中へんのころだったと
思います。

「さきのこと、ずうっとだっこしていなかったから、だっこ
 してあげようか」と、

おかあさんが言ったことがありました。いもうとのまきがへやに
いない時でした。

わたしは「いい」と言いました。

「どうして」

「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時、
いつでもだっこしてもらえるように、

 わたしはもうだっこしてもらわなくていいの、まきが
 だっこしてほしいと思った時、
 
 わたしがだっこしていたら、まきがだっこしてもら
 えないでしょう」


おかあさんは、その時、一生けんめいな顔をして、わたしを
だきしめてくれました。

おかあさんは「この日をずっとわすれない」と言います。

「さきがそんなにだっこ
 してほしがっていることを、この時まで気がつかなかった」
 と言います。

わたしもぜったいにわすれないと思います。

だって、その時のだっこが、
わたしのおぼえているさいしょのだっこだからです。

これよりまえのだっこを、
わたしはおぼえていません。


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わたしのようちえんのたんにんの先生は、わたしが
つらいのをわかってくれませんでした。

先生は、わたしがなくしものをしてないた時と、だれかに
いじめられてないた時と、
ころんでないた時にだっこしてくれました。


わたしは、何でもないふつうの時に、だっこして
もらったことがありませんでした。

わたしは、先生にだっこされてにこにこわらっている
ともだちが、うらやましかったです。

わたしも、ないていない時にだっこしてもらいた
かったです。


(中略)


ようちえんにつくと、おかあさんは、ちょうどえんていに
いた先生に、わたしがともだちとあそべないことを
そうだんしました。

すると、先生はおどろいた顔をして言いました。


「さきちゃんは、教しつでは、いつもおともだちとあそんで
いるから、大じょうぶだと思いますけど」先生のことばが
はっきりと聞こえました。

わたしは、先生とおかあさんのはなしが気になって、
あそんでいるふりをして、耳をすましていたのです

(先生は、わたしのこと、見てないなあ……)。


わたしは、先生は、わたしがともだちがいないのを
しっていると思っていました。


だって、先生は、年しょうの時も、年中の時も、
ずっとわたしのたんにんだったのです。

わたしのことを見ていたらわかるはずです。


「さきちゃんはおともだちがいません。何とかしましょう」と、
本当のことをちゃあんと言ってほしかったです。

でも、もし本当に気がつかなかったのなら、「さきちゃん、
おともだちいないの?」とわたしにちゃあんと聞いて
ほしかったです。

先生は、そのどちらもしてくれませんでした。わたしは、
この時からこの先生を、わたしのことわかってくれない
わるい先生だと思うようになりました。


*****************


じつは、わたしは、ようちえんの先生やともだちのことは、
あんまり、思い出したくなかったので、わすれようと
思っていたのだけれど、このごろ時どき考えます。


ようちえんの先生は、わたしが、「だっこしてください」と
言ったらにこにこだっこしてくれたのかもしれません。


ようちえんのともだちは、わたしが、「ともだちに
なってね」と言ったら、ともだちになってくれたのかも
しれません。

わたしが心をきつくしていたから、ようちえんの時わたしは、
だれともなかよしになれなかったのかもしれません。


わたしは、じぶんがわるいのに、人をわるいとずっと
思ってきたのかもしれません。そういうことに気がついた今、
わたしは、とてもかなしいです。


ゴーシュが本当のゴーシュにもどった時、わたしは、
(めでたし、めでたしです)と
言いました。

でも、本当のゴーシュにもどったゴーシュが一ばん先にしたことは、
かっこうに、「すまなかった」とあやまることでした。


わたしは、ゴーシュも、今のわたしのようにかなしかったんだろうと思います。


わたしのかなしさは、はんせいではなくこうかいです。

わたしは今、ようちえんの先生にとてもわるいことをしたと、こうかいしています。


本当のじぶんじゃない時は、じぶんじしんもつらいけど、まわりの人もきずつけて、
まわりの人にもつらい思いをさせているのかもしれません。

わたしは、もうこうかいしたくないと思います。わたしは今、本当のじぶんです。
本当のじぶんをちゃあんと見て、そのじぶんをたいせつにしてなくさないように
したいと思いました。

わたしは、いつかようちえんの時の先生に会うことがあったら、
「あく手をしてください」と言いたいと思います。その時わたしは心の中で、
(めでたし、めでたしです)と、じぶんに言ってやろうと思います。


****************



人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。

でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、
じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。

わたしは、がんばって大きくなります。

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いかがだったでしょうか。


最後に参照したページなどを紹介させて頂きます。



■MUSIC A GO GO 

http://walkonblog.exblog.jp/13486599/#13486599_1


■メロウマイマインド


 http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20070515/p1








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