イエスは自我。キリストは神我。

目覚めることでイエス・キリストとなった。イエスという現象我を拝むと、完全なる偶像崇拝となる。


人に、形あるものに頭を下げてはならない。

形あるものは結果、原因なるキリストに頭を下げなければならない。


1:30

形あるものを作って、形あるものを礼拝するのは偶像崇拝。

例えば、肉体我の知花に頭を下げたり礼拝するならば、もう既に偶像。


私知花が存在する原因を知らねばならない。

キリストは生命。イエスは肉体。

神我顕現なされてイエスキリストとなった。


2:35

お釈迦様も最初は釈迦。内在の自己に目覚めて、肉体を通して神我を顕現したことで仏陀となられた。

如来とは地上界に仏が現れること。


3:11

私達人間はどなたでも神仏を宿してる。

キリストとは一言、大生命・普遍なる愛。

これをみんな宿してる。


私達の実体・実相は生命であって、血や肉ではない。これを自分自身に言い聞かす。


4:44

ややもすると肉の自我で日々の生活をすると、自我に生きることは悪に生きること。

自我は人を中傷する・憎む・怒る・嫉妬するが、神我は絶対愛・絶対調和。

だから霊に生きよ、生命に生きよ。

私に生きるものは躓かない、永遠に死なない。


5:55

内在のキリストが天国・神。ロゴス。

キリスト意識が霊意識・生命意識。

6:45

生命の・キリストの自覚ができてないがゆえに悪口、中傷、人殺しをする。

7:08

イエスは人の子。人の子を通して神が現れた。

私達の肉体も人の子にして、生命は神の子。

キリストは神の実子であり、神ご自身。


8:00

キリストとは何か?と問われたら、

生命あるいは霊・神と答えていい。


神に目覚めたということ、だから神我と言う。本物の自分。肉とか魂は結果にすぎない。


影なる外なる自分を「我、我、我…」「自分、自分」と生きてる限り、対立・差別感。

生命は一つだから無差別。

キリストは一にして多なるもの。神は一にして多神。


10:00

皆さんは肉が生きて 肉が働いてると思ってる、大変な迷い。神の御業・力である。

命に言葉があるのであって、肉には言葉も智慧も力もない。

肉体は生命の働く場。肉そのものが私達じゃない。


11:00

肉は快楽を好む。欲望。肉の快楽に溺れて、本当の真の自己を見失っている。迷い。


11:40

今から二千年前にイエスを造って イエスの中に働いていた命と、今の皆さん方の肉体を造って 肉体の中に働いてる命は、別の命?


人間一人一人は神の宮、

私だけがそうであるとは言ってません。


12:20

しかしイエス様だけが実子で、私達は罪の子と言われてます。


肉に生きてる人は罪人です。神が肉体という悪をまとっています。その悪を克服しなければなりません。

真理を知らないことが最大の罪である。


14:25

皆さん自身の神我が救い主・メシアです。

その神我が皆さんを救います。

そこを常に意識することが、キリスト意識です。


15:20

その生命の自覚が神の自覚・キリストの自覚です。その自覚を高めるために五感を沈黙を守らせて、内なるキリスト意識が支配するように瞑想する。統一・集注して受け入れる。


16:00

私は気長にあなた方のハートをノックしてるものとは、真の自己に目覚めなさいと内からノックしてませんか?

しかしいくらノックしても気づいてくれなかった、なかなか本源に帰ろうとしない。


17:20

あなた方は私に繋がらなければ不毛である。外なる働きは諸行無常。


18:00

この肉体を通して働いているのはあくまでも生命、外側のもの自ら無。


真理を知ってる人は己自身を知ってる人。

真の自己を知ってる人。


19:20

皆さんは永遠の自分に死んで死にゆく朽ち果てる肉に生きて、生老病死の四苦に囚われている。

永遠なる愛、絶対愛が我々の神我。


21:30

私が誰かを憎むということは自分自身を憎むことになります。

影という形で物を見るから分離感を感じる。内側を見れば、全体は我。それが全我と言います。


23:30

内なる生命は絶対愛・絶対調和、皆さんはその中に住まねばなりません。

24:36

自分自身の生命には絶対に区切りのあるものではない。無限です。