昨日そろばん教室の日だったけど


「やっぱりどうしてもそろばんに行く前モヤモヤする…辞める


と次女から言ってきました。




週に3回あるけどパッタリと行けなくなってしまって


5月から始めてたったの約1か月…




きっかけはお友達に誘われて入ってみたものの


友達と行くのを楽しみにしていたサマースクールは、ある程度『級』を取得していないと参加できないことが判明したし


元々そろばんに興味があったわけでもなく…



でも、お友達が誘ってくれた習い事だからと


次女も悩んだと思います。



お友達に辞めることを伝えると何のためらいもなく

「オッケー!」と言ってくれたとのこと。



そして、次の遊ぶ約束もして


お友達は無理に次女を引き止めることもせず、受け止めてくれた様子。



次女も、そのことに安心している雰囲気でしたニコニコ





私の方はと言うと…



「辞める」と次女に言われた時、少しの間不安の波が押し寄せて


喉の奥がぎゅっと詰まったような…心臓をわしづかみにされているような感じで…自分自身のモヤモヤと戦いました😅



そろばんの休みが続いたので


次女にあらかじめ

「無理していくことはないよ」

「辞めても良いよ」

「続けるのなら週に1〜2回は行くようにしよう」



と言ってありました。


当たり前だけど…習い事は小学校と違って、お金がかかります。


行かない所、利用しない所にお金を払う気持ちは私にはありません。


『行かないなら、お金がもったいないから辞めようね』


と、次女にはハッキリ伝えていました。



それから間もなく、次女は自分から「辞める」と言ってきたのです。



自分でやると決めて、辞めるのも次女が自分で決めたのだから


何の問題も無い


と頭ではものすごくクリアに分かっている。





次女も友達に受け入れてもらえて、いつもと変わらずに次の遊ぶ約束もして


どこかスッキリと晴れやかな顔をしているし



本当に何の問題も無い。


むしろ今は辞めるのが良いのだろうと思う。






それでも、私の心が勝手にギューっとなる。




なぜか。




私の中にいる小さな私(インナーチャイルド)が


不安で不安で仕方なくなっているからなのだと確信しています。





私も3歳からピアノを始めて中1くらいまで続けていました。


その間に



何度も何度も『辞めたい』と思ったし


実際に、「もう辞めたい」と母に言ったことがあると思います。


記憶は定かではないけど


母から返ってきた言葉は


「せっかく今までやってきたんだから今辞めたらもったいない!」


と言われたと思います。


私はそれから母に辞めたいと思っても「辞めたい」と言うことはしませんでした。


多分、その時母はめちゃくちゃ不機嫌になって怒ったのだと思う。


そうじゃなかったら…きっと、何度も「辞めたい」と言っていた。


でも、『ピアノ行くの嫌だなー』…と何度も思っていた記憶は確実にあるのです。


私がピアノに行くのが嫌だと思った理由は


次女のようにモヤモヤするとか曖昧な理由ではなく


もっとハッキリした理由でした。




それは家で練習せずに行ったら、ピアノの先生に怒られることでした。

練習していないのはちょっとしたミスタッチでもすぐに見抜かれます。



でも、このときの私が練習しなかった理由


しなかったのではなく、できなかった。




ピアノを練習すると、父に『うるさい!』と言われたから。

TVの音が聞こえなくなる、と。



練習すると、家族に褒められるのではなく、毎度毎度


『うるさい』


と言われる家庭でした。


そんなことも理解できない母親。



音を小さくして(消音ペダルを使って)弾いても


『チッ』と舌打ちをされる。


そのうち、自分の部屋にキーボードが欲しくなってそれで練習したりもしたけど


やっぱり、ピアノから比べると、安物のキーボードなんておもちゃみたいなもので…全然違うんです。





母はとにかく、【しんどいことも続けるのが美学】でしたから…


途中で放りだして辞めることは、悪いこと、劣っていること、恥ずかしいこと


だと私に教えてきました。




ピアノを10年ほど続けたから、もうそろそろ辞めても良いね、と母の許可が降りて辞めました。




辛い看護学校の時代もそうでした。


母にすすめられた看護の道。


母は自分で経験したこともないくせに


私が『もう辞めたい…』と電話すると


「辞めるんじゃない!ここまで頑張ってきたんだから。辞めるなんてもったいない!続けなさい!!奨学金も借りてるのだから。看護師になって働かないと返せないよ?」


と受け入れてくれませんでした。


母は私の辛さを何も分かろうとしてくれませんでした。


高校を卒業し、親元を離れて初めての一人暮らし。




一人暮らしをしながら、奨学金を借りながら


誰にも寄り添ってもらえず


一人で頑張り続けることを選ばざるを得なかった。


引き返すことなど選択できない。


本当に地獄でした。



でも



それに耐えて来れたのは、私の中のもう一人の私の存在でした。



そのもう一人私は、どうやって私に寄り添ってくれたのか。



『辞めると今よりももっと恐ろしいことになるよ』


『今の辛さは、その将来やって来る恐ろしいことよりマシなんだよ』



って励ましてくれたのです。





今は地獄で辛いかもしれないけど、逃げ出したらもっと辛い思いをする。


だって、逃げ出した先に私を守ってくれる存在などいないのだから。



それが本能的に分かるから、もう一人の小さい私が私をそうやって励まして私を守ってくれていたのでした。




その時と同じように、現在の私のことも


そのもう一人の小さい私は守ろうとしてくれるのです。



だから自分の子供にも


『今辞めたら、もっと恐ろしい事が待っているよ!!』

『だからあきらめちゃダメ!!』


って、小さい私が不安で不安で仕方なくなって、必死で私に訴えかけてくるのです。




お母さんには守ってもらえないからです。





でも今私は



自分のことも、自分の子供も守れるお母さんになりました。



自分の母に守ってもらえずとも、自分が自分を守れるし、子供のことも余裕で守れるのです。



恐ろしい事が近くに迫ってきても大丈夫です✨





習い事をたったの1か月で辞めることは世間の常識では


忍耐力のない人間になる

何でも中途半端に終わらせる人間になる



とか、そんな認識でしょうか。



だとしたら、その具体的な根拠は何だろう?


具体的にはどんな困ることが起こるのだろう?


習い事は具体的に何年続けたら、忍耐力のある人間や最後までやり抜く人間になることができるのだろう?


そもそも習い事はそういう人間を作り上げるのに必須な事柄なのか?


習い事をしていない人はそういう人間ではないということか?


習い事に限らず、学校にさえいけていればそういう人間になれるのか?


毎日毎日、皆勤賞をとれるような人がそういう立派な人になるのか?


その立派な人は具体的にどういうところが立派なのか?


そもそも、物事を根気強くずっと続けていさえすれば必ず絶対、誰でも立派な人になれるのか?




私の母のように


途中で放りだして辞めることは、悪いこと、劣っていること、恥ずかしいこと


と考える人たちは


そもそもこれらの問いに明確に答えられるのだろうか?



なぜ


こんな曖昧で何となくしか考えられないような人の意見や常識に、たくさんの人が左右されるのだろうか?




こうやって考えると無限に疑問が出てくる。




きっと立派な人は、こんな疑問くらい


みんながあっと驚くほど納得のできる名回答を言えるのだろう。




それを信じる人も、きっと言えるはずだ。



なのになぜ…こんな常識を信じているうちの母は言えない?


言っているところを今まで一度たりとも見たことがない。





それはなぜだろう・・・?ヒヨコ







ここまでお読みくださりありがとうございます😊