さて、2018年も終わり、ついに2019年
いよいよ、平成の時代も終えようかとしています
そして、新年といえば、やはり『初詣』
みなさんは、もう行かれましたか?
 
みなさん、一度は初詣に行かれたことはあるだろうと思います
恐らく、一度もないって方はほとんどいないんじゃないでしょうか
そんな、我々の身近にある初詣ですが、この『初詣』の起源・意味合いはご存知ない方は多いんじゃないでしょうか
そこで、今回この時期にぴったりな行事「正月・初詣」について言及していきたいと思います
ちなみに最後に参拝の気になるアレ紹介してます
 
 
まず、その前に『神社仏閣』という言葉を聞いたことはあるだろうか
中には、おや?『寺社仏閣』じゃないのか?
って思った方もいるんではないだろうか
実は正しく言うと『神社仏閣』が正しい
では、なぜ寺社仏閣という言葉がでてきたのか?
それには、まず意味から知ることとなる
 

まず、神社

これは、神道の神様を祀(まつ)って参拝をするところを指す

特に建造物を指し、それらを祀る場所を意識して使われることが多い

次に仏閣

「閣」という言葉は、元々建物を意味するのに用いられる

特に、高い建造物や、格式ある建造物に使われ、金閣や、天守閣などがそれを指す

仏閣とは、仏(ほとけ)の在る建物という意味を持ち、つまり寺院を意味する

 

寺社とは(Wikipedia)―――

寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。
寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。

 

とあるように、寺社とは寺院と神社を指していて、もし「寺社仏閣」だと、寺院・神社・寺院という意味になってしまい、日本人がよく言う「チゲ鍋」と同じで、言葉が重複してしまうこととなる(チゲとは鍋を指すので、この場合「鍋鍋」)

ってことで、明らかに「神社仏閣」が正解だ

そういった背景には、『神仏習合』がある

 

神仏習合(Wikipedia)――――

寺院も神社も(神も仏も)信仰の対象としては変わりなく、明治の神仏分離令以前は、特に区別する必要が無ければ両方含めて扱われることも多かった。
背景には神仏習合の歴史があり、土着の神道と渡来して普及した仏教(特に密教)が混淆(こんこう)して修験道などの多様な信仰を生み出してきた。
多くは明治期の神仏分離の流れにより、既に一体化した存在であったものも強制的に神社・寺院に分離させられ一方が廃されることも起きた。
現代では、「日本人は信仰心が薄い」とよく言われるように葬式など特別の時以外は寺社の違いはあまり意識されておらず、現世利益的・または観光対象として同列に述べられている例が多い。

 

結局のところ、きちんと把握できている日本人は極一部の人たちだけだということだ
 
 
さて、随分とそれてしまったので、話を戻そう
正月いうのは全て「死霊」のための儀式である
 
いきなり何を、という方もいるだろうが、実はそうなのだ
鏡餅を捧げ、注連縄を飾り、豪華なお節を食べて、寺社に参拝に行く
こんなにも華々しい行事の、これのドコが死霊のための儀式なんだと・・・
 
そう、この「霊」というのは、新年の始まりに家々に訪れるといわれる「歳神様」のことだ
地方によって、呼び名は様々だが、所謂先祖の霊とされているところが多い
その霊=歳神様を迎え入れるために「大掃除」をし、一家総出で正装となり、親族一同が集まり、歳棚に向かって祈る
この姿は現在でいうところの「葬式」と同じなのだ
且つての正月は、「盆」と同じく、慰霊する行事であった
それが次第に分化し、新年の祝いとともに1年の無病息災を願う儀式に変わっていった
 
そして、この死霊が宿る依代、これが『門松』にあたる
この門松を目印に死霊は霊界から戻ってくるとされていた
さらに門松は、「悪しき死霊を撃退するための武器」ともされていた
門松には「松」の部分と、「竹」の部分があり、松は神(霊)に捧げる木、これは歓迎の意味を表すが、尖った竹は、攻撃を表す
門松の中心には竹があり、全体としては武器の部分が目立つ
正月は様々な死霊がを徘徊しているため、良い死霊は歓迎し、悪い死霊は撃退するために尖った竹を立てているわけだ
 
正月を飾る派手な注連縄(しめなわ)は多くあるが、この注連縄、実はあの世とこの世の境界線の意味を持ち、注連縄を張ることで「霊域」をつくり、死霊が滞在できる環境としている
こうして、招いた死霊に対して、1年の幸福と豊作を願うのが、本来の正月なのだ
 
あと、昔から行う儀式で『書初め』がある
これは、元々宮中で行う儀式で、書初めで書いたものを「左義長(さぎちょう)」といわれる火祭りの儀式で燃やすのが古くからのしきたりだ
勝山左義長「ドンド焼き」
その時の煙に乗って、歳神様はあの世に帰っていくとされていた
 
『お節』は、節目のための供物であった「御節供(おせちく)」が語源で、縁起物が並ぶ
こうして、霊に供えたものを食べることで、人と霊が結ばれ、生命力が宿ると言われてきた
 
他にも食べ物といえば、正月に飾る『鏡餅』がある
この鏡餅、なぜ、わざわざ餅を丸くして重ねるのだろうか?
それは、鏡餅の鏡は名のとおり、鏡を指し示しており、鏡とは古来より神事に用いられる聖なるもので、この世とあの世の境界と捉えられていた
今でも、鏡餅が鏡の如く美しく磨かれているのは、その名残りだ
ちなみに二段に重ねるのは、福が益々重なるようにという願いから
上に乗せているのはみかんではなく「橙」
みかんは春になると熟し切って枝から落ちてしまう
しかし、橙は春になっても枝についたままで、一度実がなると、4~5年は落果しないといわれていることから、橙を健康長寿の家庭・家族に見立て、家系代々の長寿・繁栄を願うといわれている

正月とはそもそも死霊の祭であり、山や海から死霊がやってくると考えられていた
死霊は依代である鏡のような餅にたどり着き、そこに宿る
我々は、歳棚に供えた鏡餅に宿った死霊に対し、祈りを捧げているのだ

そして、正月が過ぎると、鏡餅を割って食べる
『鏡開き』
当然、これにも意味がある
鏡餅は死霊が宿る場所と先ほど告げた
すなわち、これは「死霊を食べる」という慣わしなのだ
我々は過去より「死霊を食べる」という儀式を行っていた
これは、霊体を身体に取り込むことに他ならない
いうなれば、一種のカニバリズム
この考えは、古来より日本の伝統的な考え方である
実はこの餅、且つては『お年玉』だったのである
現在では、ポチ袋にいれた金銭だが、元々は歳神様に捧げた供物を、家長が子供たちに分け与えていた
その供物の一つが、鏡餅なのである
当時は「歳魂(としだま)」と呼ばれていていたことからも、霊が宿っていることがうかがえる
歳神様が運んできた運気と霊気が宿った鏡餅を、子供たちに分け与え、家族みんなで先祖の魂を「食らう」
これこそが、お年玉の起源で、今でも正月にお年玉と一緒に丸い餅を一緒に渡す地方も存在している
 

そして、多くの参拝客で賑わう『初詣』
これが一般的になったのは、実はほんの100年ほど前で、それ以前の正月には寺社に参拝するという風習はほとんどなかった
大晦日から家の中で歳神様を迎えて祀り、厳かに過ごすのが伝統的な本来の正月の姿
これは「年籠り」と呼ばれており、その名の通り、家で過ごす人が多かった
それが、明治時代になると、趣向が変わってくる
歳神様は日の出とともに訪れると言われるようになり、日の出を拝む習慣が盛んになる
そして、神社への参拝も推奨されるようになっていくのである
 
そう、これはおのずと知れた「国策」だ
明治維新を皮切りに、近代国家へと成長していく大日本帝国は、国をまとめるための政策の柱として、国家神道を用いた
天皇を現人神(あらひとがみ)として、絶対的な存在に位置付け、そのもとに全国の神社を配し、祭祀(さいし)を行い、国民的な宗教とし、「富国強兵」のために神道を利用したのだ
その過程で、役所などで「新年拝賀式」と称して神社に参拝したり、学校では元旦に登校する「元旦節」が行われたりと、次第に初詣の習慣が一般的になっていく
それと同時に日本の右傾化・軍事化が進められていった
このように国家神道を軸に2つの大戦へと発展させ続けてきた大日本帝国だが、1945年に敗戦し、同年、日本を占領したGHQによって、国家神道を廃止し、政治と宗教の分離を行ったが、初詣の習慣は今も日本文化に根強く残っている
 
実は、この初詣が有名になり一般化していったのは、当時の鉄道事情にもある

「初詣」という言葉自体が使われたのは、明治時代に入って川崎大師に使われたのが始まり

当時は、正月に寺社に参拝する人も珍しく、参拝してもその年の恵方に向かって参拝する「恵方参拝」が一般的だった

恵方は、その年によって方角が変わるため、そこで鉄道会社が思いついたのが、「正月に参拝するなら川崎大師へ初詣」と謳い、川崎大師への参拝客に鉄道を利用してもらおうと、鉄道会社が宣伝で初詣という言葉を使い、初詣という言葉が広まったとされている



我々は、遥か昔より正月に死霊に拝み、死霊を宿らせた餅を食べ、悪しき死霊を武器で撃退するなどということを行っていた
もしかすると、近代以前の人々は、具体的に死霊の姿を感じていたのかもしれない

しっかりと己を振り返る時に、自分以外の何かに導かれている・守られている感覚を感じることは少なからずあることだろう
こうした、振り返りを最も濃く行う時が正月・初詣であるからこそ、そこには死霊のイメージあり、死霊と交流する時間、特別な時間であるという感覚を深めていると言えるのかもしれない

そして、「死霊を感じる」「ルーツに立ち戻る」正月の最も中心となるものが「初詣」
初詣にも、驚くべき意味や、本当の姿があるのだ!

 

 

 

ココで、ちょっと気になる俗説について少し触れておこう

以下の事は、実際の神職や僧からの意見を取り入れてるが、宗派によっては考え方も変わってくるので、一案として参考にしていただきたい

 

初詣はいつまでに行く?

3日までに行かないと、遅くとも1月中には、と言われることが多いが、厳密にはいつでも良いとされている

これは所謂、商業目的によるところが多く含まれていて、実はその年内ならいつ行ったとしても、参拝すればご利益は得られるという

要は、そのことに対する心構え、参拝するという気持ちなのだ

 

神社仏閣のハシゴ

これもまったく問題ない

何か所でも、ドコへでも行っても構わない

寺社によって、当然「得意分野」があり、願い事の内容によって参拝する場所は異なる

だから、1日に寺社をハシゴして掛け持ち、なんてことも当然大丈夫
まぁ、考えてみれば、1年のうちにいろんな場所へ、複数箇所へ参拝するのが問題ないのだから、当然と言えば当然だ

 

お守りの複数持ちは、神仏が喧嘩する

「相性の良くない仏や神がいるので、組み合わせ次第ではマイナスを生みかねない」という意見があるが、これなんか、笑ってしまうほどのデマである
人は弱いものだ

故に人は超常である神や仏に頼る

これは、ごく当たり前の事で、ひとつの神だけでなく、別の寺で同じ祈願をするのも自然といえよう

なので、これは否定には値しない

神社と仏閣、両方のお守りが、ましてや、同宗の神や仏たちが喧嘩する、争うことなんてありえるわけがない
日本は古来より、八百万の神と呼ばれるほど沢山の神々が存在している

そんな神々や仏たちが仲違いするほど、俗な存在ではない

そもそも日本では、先ほどから述べている「神仏習合」の時代が長く続いていたのだ
ちなみに、お守りやお札は一年で新しくするのが良いとされ、そのため、初詣には、去年のお守り、お札を持っていくのがよいとされているが、これも当然ながら、購入先ではない寺社に納めても全く問題ないので、気軽に交代させて大丈夫だ

ただ、こういうことを言うのは、恐らく他寺社へ行ってほしくないという自分本位な願いだけが表に現れた、ただの嫉妬心からだろう

 

おみくじの再チャレンジ

年明け一発目の運試しといえばおみくじ

しかし、これがいきなりの大凶では目も当てられない

しかし、当然、これも引き直しOKだ

極論をいうなら、要は気の持ちよう、気持ちの問題だということだ
そこには、明確なルールやNGこそはないが、あくまで寺社といえば神聖な場所であることを考慮していただきたい

境内が混雑しているのにも関わらず、何度も引き直したりする、マナー違反はダメだということだ
あと、凶だからといって手近な木に結んでしまうような行為もマナー違反

寺や神社の木は神聖な場所に生えているもの

それを傷つけたり折ったりしないよう配慮するぐらいの心配りは必要だろう

今はおみくじを結ぶ場所が設けられていることが多いので、正しく利用することがマナーと言えよう

 

喪中の人は神社・仏閣への参拝しない

結論から言えば、神社は△、お寺は○

そもそも神社と寺を一緒に考えるのが大きな間違いで、両者は「死」に対しての考え方が全く違うところにある

神社の場合、死は「忌み嫌うもの」「不浄なもの」でありケガレと考える

そのため、神社のお社(やしろ)の中で葬儀はできず、ケガレている間は鳥居をくぐることすら許されない

しかし、寺の場合「死」はケガレとは考えられていない

寺の本堂を利用して葬儀もすれば、初七日法要、四十九日法要もするわけだ

寺への参拝は、葬儀や法要だけではない

根本的に正月には、旧年の感謝と新年の挨拶をすることが大切とされているから、喪中でも是非参拝に行っていただきたいものだ

しかし、前述した「ケガレ」は不浄を意味する「穢れ」と書くが、「気枯れ」とも書く

つまり、元気がなくなってしまっている状態のことだ
そんな時、賑やかな場所で「おめでとう」という気分にはなれないだろう

一般的なマナーで、「喪中時は神社仏閣への参拝を控えること」と言われている理由には、実は「お祝いムードを避ける」という意味が見え隠れしているところにあるといえよう

 

ここで「忌中」について説明しておこう
忌中とは、死者が出た家の人間が忌み慎む期間のことで、目安としては、仏教では四十九日間、神道では五十日間と考えられている

なので、神道では一般的に五十日祭を終えて忌明けすれば鳥居をくぐっていいとされており、合格祈願、安全祈願、お宮参りなどの行事が可能となる

この考え方でいけば、初詣も一応可能となるわけだが、そもそも「忌」の捉え方が神社によって違うのでここは注意が必要だ
神社の場合は仏教の教えと違って、地域に根付いた信仰にあたることから、「一般的に」という言葉では語れない部分が多くある
死の忌みは五十日祭を終えてもなお続き、たとえば両親が亡くなった場合なんかは、一年間を忌中として、神事祭礼への参加を禁止するという慣習が広く伝わっている地域もあったりする

 

参考─────

「本当は怖い日本のしきたり」火田博文

「日本びより」webサイト

「生活情報お役立ちナビ」webサイト

「All About暮らし」webサイト

 

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