今日、6月16日は芭蕉が象潟を訪れた日だ
 
 
1689年6月16日、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の最北の地である象潟を訪れ、「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評し、
「象潟や雨に西施がねぶの花」
と詠んだ
 
 
───象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域の地形である。現在は平地だがかつては潟湖で、それを象「潟」と呼んだ。
国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地
 
芭蕉は、元禄2年6月16日、秋田県にかほ市象潟町を訪れた
当時、象潟は松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった
象潟を芭蕉は「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」と形容した
松島は男性的、象潟は女性的だと言われ、「その俤は松島に似て松島とは違う。松島は笑っているようだが、象潟は、寂しさに悲しみを加えて嘆いているようだ。その地形は愁いに沈む女の姿だ」と 
 
 
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
 
(現代語訳)
雨に濡れる象潟のネムノキの花を見ていると、世に言う西施の美しさとはきっとこのようなものだったのかと思えてくる
───
「合歓(ネブ)の木」
山野に自生する落葉樹で、まれに見上げるような大木になり、その花は、絹糸のように細く長く伸び、まるでクジャクの頭のようである
「西施(セイシ)」
中国四大美女の一人で、紀元前5世紀、中国の越と呉が戦い、戦いに敗れた越王は、降伏の印として差し出したところ、その美貌に心を奪われた呉王は、ついに国を傾けたという
 
 
さて、そんな句を詠んだ芭蕉だが、こんな都市伝説がある
 
おくのほそ道は、芭蕉が俳句を詠みながら日本を旅した紀行文であり、江戸から出発し、歩いた総距離は600里と言われるが、600里といえば、2400㎞にも及ぶ
旅の期間で割ると、1日あたり48㎞にもなり、江戸の時代にそんなにも多くの距離を歩くのは困難だとされている
 
その一つが関所の問題だ
関所の中には奉行所関係者ですら、通りがたい場所さえあり、そんな中でも最高厳重な関所をも通った痕跡が残されている
そんな関所をたかが、「俳句を詠み歩く」といった個人的な理由だけで通ることはできたのだろうか?
芭蕉は相当な権力を持っていたか、その権力を行使する、ようするに後ろ楯があった者ということになる
江戸時代の強力な後ろ楯というと、そう、徳川家康だ
徳川幕府の中でも、各地を回る必要性のあった重要人物で、諸大名の内情を探る役目や江戸の治安維持の仕事を任されていた責任者こそ服部半蔵その人だ
 
そして、芭蕉が旅に出たのは、46歳であったという
46歳で1日に数十キロもの距離をひたすら歩くというのは、相当に鍛えられていた人でないと難しいだろう
さらに芭蕉の生誕の地は、「伊賀」とされていて、半蔵が伊賀の忍とされているのは、周知のとおりだ
 
さらに家康と半蔵は、特異な関係性であった
通常、忍というと傭兵上がりが多く、隠密行動を求められるため、いないもの、つまり存在を明かさないものだが、半蔵は違う
伊賀同心の支配役でもあり、徳川十六神将の一人、鬼半蔵の異名を取る甲冑を着て足軽を率いた武士でもあるということだ
つまり、顔が割れているということ
スパイ活動を行う上で、顔が割れているということは致命的だ
しかし、それが一介の俳諧師となればどうだろう?
しかも、松尾芭蕉という名で知られてしまえば、日本各地を放浪しても違和感がなおのではないのだろうか
 
 
信じるか信じないかはあなた次第です‼☝ 
 
 
 
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