今日、5月24日は『伊達巻の日』
 
 
伊達巻の名前の由来という説のある伊達政宗の忌日であることから、厚焼き卵などの寿司具を製造する千日総本社が制定した
 
 
伊達政宗といえば、NHKの大河ドラマ『真田丸』にも出てきた真田幸村と並んで戦国の人気キャラとして愛されている伊達男
 
いつの時代も人々の心を捉えて離さない政宗だが、実はそのイメージと実像はかなりかけ離れている
 
政宗は、偉丈夫の大男として描写されるが、史実では、その身長は159.4cmで当時としてもさほどの大男ではない
「独眼竜」という異名も自分で名乗ったわけではなく、江戸時代の学者・頼山陽によって後唐の李克用のあだ名から名付けられたものである
 
またよく「伊達男」という言葉は伊達家の壮麗で華美な武者ぶりから生まれたと言われているが確定事項ではなく、「立て男」が「伊達男」に変化したという説も近年では、有力になってきている
 
だが、しかし政宗が片目であったのはどうやら本当のようだが理由には諸説あり、眼帯も本当にしていたのか疑わしい
 
 
政宗の墓がある宮城県瑞宝殿は、第二次大戦で消失してしまったが、墓そのものは無事であった

 
その再建時に政宗の遺骨が調査されたことがあり、その時の調査によると、鼻梁が高く二枚目であったと推測されたのだが、眼球のあった部分には何の異常もなかったという点であり、この事実を踏まえると、実際に骨に異常がなくとも眼球そのものに障害があり失明していた可能性は否めない
 
このことは政宗も気にしていたらしく、晩年には「自らの肖像画は両目がある形で描いて欲しい」と言っていたくらいで、その証拠に仙台市博物館に所蔵されている政宗の肖像画は、両目が開いている
 
 
また、母親による政宗毒殺未遂事件も疑わしいと言われている
母親が実家に逃げ帰ったのは事件から数年が経過したあとであり、その間も親子の親しい手紙のやりとりが続いていて、親子の確執はなかったのではないかという説もあり、さらには政宗が弟擁立を狙う家中の反対勢力を一掃するために毒をもられたふりをして弟を手討ちにしたという説も唱えられている
 
 
 
この頃の武将たちは、非常に男色家が多かったそうだ
その理由として
■戦場には女性がおらず、性的な相手が男性しかいなかった
■男色は「風流の花」と呼ばれた崇高な趣味と捉えられていた
■男色により出世のきっかけとなる
 
以上のことから、男色文化が拡まったと言われている
そして、政宗も例外ではない
 
政宗の相手になったと記録に残っているのが、二代目片倉小十郎を名乗った片倉重長
 
 
父の初代片倉小十郎は、政宗の傅役として幼い政宗の教育をし、政宗が家督を相続した後はその右腕として辣腕を振るい、豊臣秀吉に「日本三大陪臣のひとり」とまで呼ばれた有能な武将で、その嫡男である重長に政宗は手を付けていたのだ
 
このふたりの逸話として伝わるのが、大坂の陣出陣前の出来事だ
病に臥している父に代わり出陣する重長にとっては、大坂の陣が初陣となる
片倉の名を汚さぬためにも、先鋒となることを望んだ重長は、出陣の準備に大忙しの政宗を廊下で捕まえ、先陣を賜ることを願い出た
それを聞いた政宗は、重長に濃厚なキスをし、
「お前以外の者に誰が先陣をやらせるものか」
と涙を流しながら語ったという
齢47の政宗と齢31の重長、人目もはばからずに接吻を交わしたという
 
 
信じるか信じないかはあなた次第です‼☝☝
 
 
(日本史の都市伝説 山口敏太郎ーより一部抜粋)
 
 
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