今日はかなり長いです

 

 

興味のある方は心して読んでください
 
 
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さて、昨日は死海文書の序章とも言える部分を記述しましたが、今回はいよいよその核心へと迫りたいと思う
 
様々な障害に阻まれ、公開が遅れた死海文書
そして、その中には、カトリックの総本山ヴァチカンの名もある
 
死海文書には、キリスト教にとって都合の悪いことが書かれているので、カトリックは公開を妨害したというものだ
 
では、何が都合悪かったのか?
死海文書に書かれたクムラン宗教団の教義がイエス・キリストの教えに似ていたからである
クムラン宗教団は独身主義、菜食主義を押し通し、禁欲的な共同生活をおくっていたとされる
つまり、ヴァチカンはイエスの教えがオリジナルではなく、ユダヤ教の一派だったとは認めたくない、だから公開を阻んだというわけだ
 
 
カトリックの教え時に厳しすぎるときがある
はるか昔、キリスト教は当然カトリックだけではなかった
大小様々な派閥があった
しかし、カトリックは「真実を追求してはならない」「真実を知ろうとすることは悪だ」とし、聖書の真の意味、真実を追求しようとする者を良しとせず、捕獲し財産を没収し、時には命を奪うことすら必要という考えから、次第に弾圧していった時代もあったほどだ
そういったカトリックが、唯一無二でない宗派とする死海文書の存在は邪魔なのは当然だろう
 
 
そして、その死海文書、内容はおおまかに3つに分けられる
 
【経典の写本】
旧約聖書と同じものだ
 
【経典の注解】
旧約聖書の注解書
聖書の真の意味を記述し、どのように読み解いたかの注釈書
 
【非経典的な教団文書】
この死海文書を作成した宗団の独自文書
ここに人類の破滅の様相や古代ユダヤ文学の終末時の善悪の力の闘争などが書かれている
 
 
死海文書を作成したのは、「クムラン宗団」と呼ばれ、キルベト・クムランに終結したユダヤ教徒だという
当時のユダヤ教徒には「パリサイ派」「サドカイ派」「エッセネ派」などがあり、その中のエッセネ派が、このクムラン宗団であり、さらにあのイエスとヨハネもこのエッセネ派だ!
エッセネ派は、予知能力に長けていて、死や支配者の出現などの予言を的中させている
それには、当時では珍しいペルシア由来の二次論的宇宙観や古代エジプトの密儀伝統などの考えが用いられ、これこそが彼らの力の源泉であり至宝でもある死海文書なのだ
 
そして、ここで思い出されるのは、クムラン宗団と初期キリスト教団の類似である
全てを共有する考えや洗礼のしきたり、さらにはパンと葡萄酒による聖餐の儀式など数多くあるが、もっとも驚愕な事実は、クムラン宗団の指導者が「義人ヤコブ」と呼ばれる人物であるということ
義人ヤコブとは、キリストの弟であり、エルサレム教会の初代総主教だ
いわば、ヨハネとイエスが所属していたクムラン宗団とは、エルサレムそのものだということに他ならない
そして、イエスはローマに対する反乱罪で磔刑にされ、その後ヤコブも死にクムラン宗団は二人の二大指導者を失うこととなる
 
しかし、真のイエスの教えは彼の妻である「マグダラのマリア」に伝えられたという
そして、クムラン宗団の教え、すなわち古代から伝承された神聖幾何学、異質な科学、秘教伝承、真のキリスト教の教えが記され密かに保管されていた
 
 
それこそが、死海文書なのだ
 
 
この死海文書、実は先日話したように1947年に発見されたのが世界初ではない
8世紀にはセレウキア総主教ティモテウス1世が、ヘブライ語で書かれた大量の書物を発見したと書簡にに記している
また、1896年にもカイロでクムランに由来する写本が見つかっている
そして、密かに囁かれているのが、1119年に発足したテンプル騎士団だ
 
巡礼者の警護を目的として結成された「キリストとソロモン神殿の清貧騎士団ー後のテンプル騎士団」だが、実は騎士団が設立されてから10年あまりも、本拠地であるソロモン神殿跡に引きこもったまま、巡礼警護の任務についた形跡は全くない
そもそも、設立当時9人しかいなかった組織が長大な巡礼路を警護することなど不可能だ
では、彼らは何をしていたのか?
彼らは、ソロモン神殿跡の発掘調査を秘密裏に行っていたのだ
事実彼らが掘ったとされる採掘坑が1970年に発見されている
そして、その発掘調査で物質的な財宝などより遥かに上回る価値のあるものを発見したのだ
その発掘したものをテンプル騎士団初代総長ユーグ・ド・パイヤンが1127年にフランスに帰国した直後から、この小規模な騎士団はなぜか、大物シトー会士クレルヴォーのベルナルドゥスの引き立てを受け、大規模な騎士団へと発展している
その後、富と人材、権力をもたらしたのは、ソロモン神殿跡にあった「何か」だったに違いない
その「何か」こそが、もうお分かりだろう
 
死海文書なのだ
 
 
だが、テンプル騎士団の栄光も永遠に不滅ではなかった
度重なる十字軍の敗北により、テンプル騎士団は存在理由自体を失ってしまうこととなる
さらに祖国に戻り新総長となったジャック・ド・モレーの前に思いもよらぬ敵が立ちはだかった
 
慢性的に財政危機に悩まされていたフランス国王フィリップ4世だ
自らもテンプル騎士団に多額の債務を負っていた彼は、テンプル騎士団の莫大な財産に目をつけたのだ
さらに彼には過去にテンプル騎士団の入団を断られたという恨みまである
 
1307年10月13日金曜日、フランス国内にいた15000人以上いたテンプル騎士団を捕らえ、全員を「異端者」として告発したのだった
 
 
1314年3月18日、最後の総長ジャック・ド・モレーは火炙りの刑により、処刑された
このとき、モレーは
 
1年以内に自分を嵌めた王と教皇に神の裁きの座に引きずり出すと予言したという
事実、3ヶ月もしない間に両名は命を絶つこととなる
しかし、この一件でテンプル騎士団全員が捕らえられたわけではなかった
この急襲の前日に出向していた艦隊があった
アンリ・ド・サン=クレール率いる艦隊はスコットランドに渡った
 
 
そして、その地で後に礼拝堂を建設している
 
 
その内装にはキリスト教のみならず、フリーメイソンやケルト伝承の豊穣神などが描かれ、しかも当時アメリカにしかなかった多肉植物やトウモロコシも装飾されていた
 
コロンブスが大陸を渡るはるか以前にだ
彼らはアメリカ大陸の存在を知ってて、大陸に到達していたと考えられる
では、どうやって?
 
そう、この知識もエルサレム神殿地下に保管されていた死海文書の叡知のひとつに違いない
これは、仮説だが、この死海文書には正確な世界地図も含まれていたのではなかったのだろうか
となれば、死海文書はクムラン宗団独自の創作物とは考えがたい
彼らの祖先であるイスラエル人が、エジプト滞在中にエジプト神官から学んだものではないだろうか
では、なぜテンプル騎士団創設者ユーグ・ド・パイヤンは、死海文書の存在を知っていたのか?
実は、パイヤンはエルサレムに赴く前から何かの秘教伝承に接触していた思われる節が残されてる
そうして、秘教伝承に接触していたパイヤンは、なんらかの方法で死海文書の存在を知っていたとしてもおかしくないことだ
 
 
 
信じるか信じないかはあなた次第です‼☝☝
 
 
 
 
 
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