枝切街道(2) | としのブログ

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佐太の渡しから

先ずはこの大正時代末期地図を見てください。




Aは、前編で紹介した枝切街道で、 Bは、佐太の渡しの船着場から東に伸びる交野街道との重複する、もう一つの枝切街道である。


淀川の右岸から左岸に渡し船で渡った人々は、京街道を行くか、枝切街道を行っただろうが、佐太の渡しで渡って来た人は、Bのコースを行くのが自然と思われるので、Bのコースを行ってみます、ちなみにG20は前編で最後に行った交差点である。





G21   この辺りが「佐太の渡し」の船着場であったと思われます、手前の堤防が旧京街道です。


G22   堤防を降りて枝切街道を行って見ます。


G23  国道1号線を挟んで向こうに神社があります。


G24   佐太の渡しの石碑です。


G25   この神社は佐太天神宮と言います、別名「佐太えびす」とも言います、訪れた時は10日えびすの少し前だったので、えべっさんの提灯がありました。



佐太天神宮の一の鳥居です、2018年の大阪北部地震でこの一の鳥居の上部が破損したらしい。


その一の鳥居の前に立派な道標が建っている、正面には「佐太天満宮一丁半」とあるので、この近所(200m以内、おそらく淀川の堤防付近)に建っていたのを移築されたと思われる。

右側には、👉があり「野ざき七十丁/ほし多゛ニリ/くらじ瀧七十丁」とあり、おそらく野崎、星田、倉治の事と思われます。



また左側には、「もり口一り/京ばし三り」とあります、おそらく京街道を来た人に伝えたと思われます。


表門を潜り中に入ります、幕に書かれた梅の紋は、この神社の神紋ですね、菅原道真の菅原家の家紋でもあります。


佐太天神宮の拝殿です、天神宮なので祀られているのはもちろん菅原道真ですね、学問の神様です。

拝殿や本殿は大阪府の有形文化財に指定されています。


菅原道真と言えば「牛」ですねー


本殿の裏側には深い森があり、大阪府の「緑100選」になっています。


佐太天神宮を裏門から出て後にします。



またこの付近は、東海道五十七次の間宿 佐太の宿場町で、淀川を三十石舟で行き交い、京街道や今回紹介する枝切街道の交わる宿場町だったようです。




G26   佐太天神宮の街道を挟んで南側にあるのが、浄土宗 紫雲山 来迎寺である。


その説明書


来迎寺の南側には石垣があり、立札が立っています。


佐太陣屋跡と言う事で、この地の領主 永井尚庸が1687年(貞享四年)下野烏山藩(現 栃木県那須烏山市)に転封され、それまでの陣屋 交野郡渚村(現 枚方市渚の御殿山神社)が幕府の管轄になった為、京と大坂の途中で、交通と軍事の要所のこの地に陣屋を設けたとあります。





では、枝切街道に戻り進みます。


G27  遠くに佐太天神宮の森が見えます。


G28   五叉路に出ます、一方通行の標識がある方に行きます。


G29   微妙なカーブが続きます。


G30   まもなく旧国道1号線(府道守口京都線)に出ます。


G31   この交差点を斜めに入ります。





G32   比較的道幅があります。


G33  左手はオートバックスさんです。


G34   中々味のある民家ですね。


G35   前編で向こうから来たG20まで来ました、ここを右折します。


ここから枝切街道を南下します。


つづく