911のテロで失業保険生活 | トシ・カプチーノ。 オフィシャルブログ Powered by Ameba

911のテロで失業保険生活

 

 

永住権を取得して始まったアルバイト生活。会社を作ったのはいいが事はZEROだった。仕事を選べる段階ではなくなり、まずやった仕事が、リムジンカーのディスパッチャー。フラッシングのチャイナタウンにオフィスがあった。私は遅番で夜9時から朝6時が担当だった。その界隈はギャングがいると言われ、銃声音を聞くことは珍しいことではなく、特に夜は危険で店のシャッターを厳重に閉めておかなければならなかった。怖いのはギャングだけでなく、夜中に這い出てくるゴキブリとネズミ。おちおち仮眠も取れない汚いオフィス。口がいつもニンニク臭いマネージャーの口臭もそれは酷かった。朝6時までの約束で入社したが、3時間から6時間の残業は当たり前であったが、それは私にとって大きな問題でなく、生理的に汚いのが無理で1ヶ月で身を引いた。そして次にトライしたのが、レストランのウェイター。グリーンカードを取ってウェイターだもの、皮肉だよね。これは3日間の使用期間でさようなら。ご縁がなかった。次は大当たり。NYでイベントやエンタメ系のコーディネイターをしていたことが買われ、大手旅行会社のインバウンド部に採用される。私はそこでこれまでの知識をいかして日本からのグループを専門に手配関係を進めた。おかげさまで、NY生活で一番生活安定していたのはこの時期だ。どんな状況であれ、毎月、きちんとお金が振り込まれることがどんなに素晴らしいことが身に沁みた時期だ。しかし、そんな時期は長く続かなかった。

 

そう、ワールドトレードセンターを標的にした911のテロだ。その事件後、NYに来る予定だった日本からのグループは全てキャンセル。世界中から観光客が押し寄せていたNYに誰も寄り付かなくなる現象が続いた。旅行業界は完全に開店休業。出社しても社員はコンピュターでゲームをしたり本を読んだり。私はコレじゃ自分が腐ると思い、マネージャーに頼み一時的な解雇レイオフをしてもらった。この時期、多くの日本人が多くが永住帰国の道を選んだ。私は目出たくレイオフ。それによって失業保険が貰えるのだ。非常に幸運だったのは、911で起きたことでそれまで半年だった失業保険が1年に延長されたこと。私は、逆に今ビジネスチャンスがあると思い、失業保険を貰いながら着実に自分のビジネスに力を入れた。人生、雨ばかりじゃない、必ず晴れる日がくるのだ。積極的な行動が功を奏して徐々に仕事の依頼が増えた。日本のエンタメの受け入れ業務、雑誌や新聞へ寄稿の仕事が続き収入はうなぎ上り、ついにチェルシーに事務所をかまえるまでになった。私の人生の中で、最も稼いだのはこの時期だ。

 

 

唯一残っているオフィスでの画像

 

 

私の仕事だが、主に日本の舞台芸術の受け入れ業務、いわゆるコーディネイター。師匠だった大平さんのところで経験させて頂いたことをそのままやらせて頂いたわけだ。その仕事は大まかにいうと、劇場の選定、仮押さえ、NYツアーで必要な予算の見積もり。劇場契約、広報活動、芸術査証申請、舞台装置の製作、舞台監督、照明、音響など人員の確保、チケット販売、広告掲載、観客動員など。NYにはありとあらゆるエンタメが腐る程あるわけで、そんな芸術都市で、海外の日本語上演作品に興味を持つ人は稀だ。アメリカ人は通常、字幕を見ながらの観劇を好まないからだ。そんなハンディがある中で公演をするわけで、客を入れるのは至難の業。作品の質にもよるが600名定員の劇場で観客10名、それも知り合いばかり、なんてことも珍しくない。私の経験の中で、作品の善し悪しを判断出来る材料が劇場だ。NYの場合、劇場であればどこでも借りられるわけでなく、499席以上のオン・ブロードウェイ、199席以上のオフブロードウェイの劇場は一般にレンタルしない。では貸してくれる場所といえば、かなり限られて来るわけだ。だから日本人による公演は通常同じような劇場ばかりが使われる。たとえば大学付属の劇場、ケイプレイハウスハンター大学、先日、渡辺直美がスタコメをやったミラー劇場コロンビア大学、ジェラルド・リンチ劇場ジョン・ジェイ大学、そしてダウンタウンにある99席のオフオフ劇場や、有名人によるコンサートなどに使われるカーネギーホール、アポロシアター、ジャパンソサエティ、日系人会などが多いわけだ。

 

日野原先生のミュージカル

「葉っぱのフレディ」は

ジェラルド・リンチ劇場ジョン・ジェイ大学で上演

プロデュースしたのは私!

 

600席の4回公演を満席にしたのは

ワテワテでんがな!

命削って仕事したもん!

その作品のおかげで宝田明さんと仲良しに!

 

 

 

 

 

 

日本人の公演の内容はピンキリ。私が過去に観劇した作品で素晴らしいと思ったものは、リンカーンセンターから招聘を受けた平成中村座。佐藤B作さんがジャパンソサエティで上演した『竜馬の妻とその夫と愛人』も大金をかけただけあって日本で作品を観ているようなハイクオリティ。また、自分がプロデュースした作品をいうのはおこがましいが、意外に良かったのが沢竜二さんの初NY公演。字幕なしでの公演だったが、殺陣を取り入れ、片言の英語とヴィジュアルでお客様を沸かせた。公演前日にNYタイムズ紙に掲載されたこともあって、100枚のチケットは完売。二日目の公演はキャンセルチケット列ができ入場頂けない方もあったほど。このような公演がもっと日本に情報として流れるべきなのだが、日本のメディアは、見てくればかりの大物歌手しか取り上げない。

 

収入の面だが、仕事量と責任の重さに比例した金額かといわれると、そうでも無いかもしれない。公演に突入する前は、鶴の恩返しのごとく、自分の命を削って削ってお客様に来ていただく努力をしなければならない。その部分で劇場にお客様に来ていただくだけでも感謝に値するわけでチケットの売上げなどを期待することは間違いだ。この仕事の一番大切なのは人と人を繋ぐこと。

  

自民党から民主党に政権が移った2008年。事業仕分けにより文化庁の芸術面に使われていた予算が大幅カット。それにより助成金で海外公演していた演劇グループの渡米が極端に減少。私の仕事は大打撃を受け、非常に不安になっていた時期だ。それなのに、私ったら、収入が非常に不安定だったとき、私は思いついたように2000年から10年間暮らしたブルックリン・ウイリアムズバーグのアパートを出ようと決心。いまでこそ、人口の流入が激しく、家賃も高騰し、ヒップな若者の街なんて言われているが、10年前のそこは有色人種の低所得者が住むエリア。夜、イエローキャブのタクシーで帰ろうと思っても行き先をいうと乗車拒否されてしまう場所。もちろん、昼間でもそのエリアでタクシーを見かけることはなく、6時過ぎるとどこもシャッターを降ろすので街は人の姿がなく、マンハッタンと明るさと比べたら真っ暗と表現しても言い過ぎじゃないほど。私が住むことになったアパートを見に行ったとき、うらびれえた街の雰囲気と、まるで倉庫のような錆びた鉄のアパートの扉で、インターカムのない酷さ。最初見た時凹んだもんだ。しかも部屋は超汚い。元々は私に部屋を見せてくれたプエルトリカンの女性が住んでいた部屋で、彼女がその階下に住んでいた男性と結婚したために下に移ったことでそこが空室になったのだ。よく考えたらこれはミラクル的なタイミング。しかもリビングとベッドルームがある正真正銘のワンベッドルーム。しかもキッチンにもトイレを含め全部屋に窓があり、とにかく明るいし、プラスのエネルギーを感じたことも確か。階下に住んでいるプエルトリカンの女性がどうも腹黒そうで好きになれなかったが、他に候補もなく、とりあえずオーナーに会うことに。オーナーは韓国人。人の良さそうな人で、リノベーションをしないけどそこを500ドルで貸してくれると言う。2,000年と言えどもワンベッドで500ドルはNY中を捜してもないやすさ。私はもちろんすぐに契約。そこに移り住んだわけだ。それから5年後、今の旦那がそこに越してきて二人で住むことに。それでも十分に暮らせるスペースで家賃が600ドルほど。ほぼ家賃なしで暮らしているような値段。しかしながら、ニューヨーク風,ミュージカルでいうと「RENT」の世界なんだが、現実的には日本から来たお客様を呼ぶにはマンハッタンから遠過ぎる、また前述したとおり、アパートの入り口は倉庫並みの汚さ。私は意を決してマンハッタン返り咲き作戦を相方に相談。NYに暮らす日本人で多数派を締めるのは、マンハッタンの家賃の高騰で余裕がなくなり、川向こうのブルックリン地区、クイーンズ、ニュージャージー州へ引越す・・ってのが一般的。一度そのような場所に引越すともうマンハッタンには戻って来れないのだ。そんな中で逆流へ昇るシャケのように行動に相方は反対。なにせその当時の家賃は740ドル。10年間で240ドルしか家賃が上がっていないのだ。

 

 

ブルックリンの我が家

 

 

 

テレビがめちゃ昭和レトロ

 

 

 

亜門さん❤️

本当にいい人よ!

私の40歳のお誕生日パーティに来てくれた

 

 

 

 

ガチムチ系よろしく!

 

 

 

 

 

 

マルコちゃん❤️

 

 

 

30代のころは

夜な夜な出歩いてました

最近は🤭

 

 

 

 

 

30代のNYは本当に刺激的で楽しい性春でした😝

 

 

 

続きは東京公演で