祝、米倉涼子のブロードウェイデビュー
やったね、米倉涼子のブロードウェイ・デビュー・・
米倉、ブロードウェー「シカゴ」主演決まる
http://www.daily.co.jp/gossip/article/2012/03/16/0004888340.shtml
過去に主演俳優として
ブロードウェイの舞台にたった俳優といえば松本幸四郎さん。
「ラマンチャの男」に一ヶ月の限定で出演さえたことがあるが
それ以後、今陽子、島田歌穂などトライしたのだが実らず![しょぼん](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/144.gif)
(米労働ビザの取得など、いろいろ厄介な問題もあるし・・)
それを考えると、たった一週間とはいえ、
一流の舞台俳優からなる「シカゴ」に出演するなんてスゴいぞ,米倉
余談だが、BWロングランミュージカルのベストテンはというと・・
(2012年3月現在)
1位 オペラ座の怪人
2位 キャッツ
3位 レミゼ
4位 シカゴ
5位 コーラス・ライン
6位 ライオン・キング
7位 オー!カルカッタ!
8位 美女と野獣
9位 レント
10位 マンマ・ミーア!
ついでにブロードウェイの雑学も
かなりの長文なので、時間のある方はどうぞ
「全ての芸術は模倣から始まる」といわれるが、ブロードウェイも例外ではない。ミュージカルの誕生以来、ゼロから想像されることなく、先駆者的な作品から大きな影響を受けて、現在のミュージカル作品と繋がっている。
ブロードウェイ初のミュージカルといわれているのが“THE BLACK CROOK”「黒い悪魔」(1866年)だ。ストーリー・ラインはなく、歌、芝居、レビューをごちゃ混ぜにしたお粗末なショーであったが、パリの女性バレエ団100名をタイツ姿で特別出演させたことが大きな反響を呼び、当時しては異例のロングラン(475回)となる大成功を収めた。
20世紀に突入すると同時に本格的なレビュー・ショーの時代が到来する。その生みの親となったのがショー作りの天才、フロレンツ・ジーグフェルドだ。彼は1907年に豪華な舞台と着飾ったショー・ガールを目玉としたレビュー・ショー「フォーリーズ」を制作。1911年にはタイトルを「ジーグフェルド・フォーリーズ」と改名し、1931年まで21本のシリーズを上演。レビュー史上最高の評判と最長の継続期間を記録する。その伝統は、現在のミュージカルのみならず、ラジオ・シティ・ミュージックホールの「クリスマス・スペキュタキュラー」のロケッツにも継承されている。
ブロードウェイ・ミュージカルの原点といえる作品が、1927年に開幕した「ショー・ボート」だ。発案はブロードウェイ・ミュージカル界の創始者的な作曲家、ジェローム・カーンと、ブロードウェイで最も成功した作詞家のひとり、オスカー・ハマースタイン二世。人種問題をテーマに、初めて白人と黒人が同じ舞台に立つという革命的な演出を取り入れ、音楽が物語の流れに巧みに組み込まれた、初めての本格的なミュージカルだといわれている。
30年代に注目を集めたのが「ボビーとベス」である。作曲はアメリカ音楽界の大巨匠、ジョージ・ガーシュイン。ジャズとクラシックを融合させた楽曲は大絶賛。演劇関係者の間で話題を集めたものの、重く寂しいストーリーに観客の反応は冷たく、商業演劇としては失敗。しかし、現在、舞台芸術として高く評価され、たびたび再演されているばかりか、劇中歌「サマータイム」はジャズのスタンダードナンバーとして世界中に広く知れ渡っている。(現在、ブロードウェイで再演版が上演中)
また、ミュージカル界に新しい方向性を切り開いたのが、リチャード・ロジャース(1902~79年)とロレンツ・ハーツ(1919~43年)のコンビによって創作された「オン・ユア・トウズ」である。小粒ながら、詩にメッセージ性が強く、曲はエレガントで演劇ファンに高く評価されている隠れた名作である。振付には20世紀を代表するバレエ振付家ジョージ・バランシンを起用。バレエをストーリーの展開に重要な要素として取り入れたことが、のちのミュージカル界に多大なる影響を与えた。
1929年、株価の暴落で世界大恐慌となり、景気が良かったブロードウェイも大打撃を受ける。多くの劇場が閉鎖に追い込まれ、ミュージカルの規模も縮小される。そんな混沌とした時代から10年後の1943年、新しいミュージカルの時代の到来を予感させたリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世(以下「R&H」)のコンビが誕生する。その記念すべき第一作が「オクラホマ」だ。音楽と芝居が融合し、歌で物語を伝えたことは当時としては画期的であった。また、振付家、アグネス・デ・ミルによって、登場人物の性格や感情を、歌と踊りで表現するクラシック・バレエの技法”ドリーム・バレエ”を初めて取り入れた記念碑的な作品ともいえる。それ以降、「R&H」は「回転木馬」(1945年)、「南太平洋」(1949年)、「王様と私」(1951年)、そして「R&H」の最後の共同制作となった「サウンド・オブ・ミュージック」(1959年)など、ミュージカル史上に残るばかりか、劇中歌がひとり歩きしてスタンダード・ナンバーの名曲となっている。
こうした偉大な作詞・作曲家とともに、50年代以降のブロードウェイを支えたのが振付家や演出家である。その代表格はジェローム・ロビンスだろう。20世紀後半のクラシック界を代表する作曲家、レナード・バーンスタインと組んだミュージカル「オン・ザ・タウン」(44年)で振付家デビューした彼は、48年以降、演出としても才能を発揮。「ジプシー」(59年)、「屋根の上のヴァイオリン弾き」(64年)など大ヒット作を次々に手がける。しかし、なんといっても彼の名を永遠のものにしたのは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにしたミュージカル「ウエストサイド物語」(57年)である。
ロビンスと同様に60~70年代にかけて活躍したのが振付家、ガワー・チャンピオン。60年代以降は振付・演出家として、「バイ・バイ・バーディー」(60年)、「ハロー・ドーリー!」(64年)、そして代表作といわれているのが「フォーティ・セカンド・ストリート」(80年)である。敏腕プロデューサー、デビット・メリックが、マスコミの注目を集める為に、白血病で病んで行くチャンピオンが亡くなるまで、「フォーティ・セカンド・ストリート」の初日を延ばした話は有名だ。
ロビンスが演出を手がけたミュージカル「パジャマ・ゲーム」(1954年)で振付家デビューをしたのはボブ・フォッシーだ。自分のコンプレックスを目立たなくするために編み出した振付は、エロティックでありながら決してユーモアを失わず、つま先や指先にまで細心の神経を注いだ独特なものだ。フォッシーはデビュー以後、「くたばれ!ヤンキース」(55年)等の振付を行い、「レッドヘッド」(59年)から演出も手がけるようになり、「ピピン」(72年)、「ダンシン」(78年)などのヒット作ではフォッシーの振付の魅力を存分に発揮。なかでも映画化された「スウィート・チャリティ」(66年)と「シカゴ」(75年)は大絶賛を浴びたフォッシーの代表作だ。その刺激的でエキサイティングな、まるで演じているようなダンスは、ミュージカル界だけでなく、マドンナやマイケル・ジャクソンにも大きな影響を与えている。
さらに、偉大な振付家といえば、「コーラスライン」(75年)の発案者、マイケル・ベネットだ。(1943~87年)ロンビス、フォッシーと同様にダンサーとしてデビューした彼は、振付家として「プロミセズ・プロミセズ」(68年)、「カンパニー」(70年)に関わり、「フォリーズ」(71年)、「シーソー」(73年)の演出振付を経て、「コーラスライン」、「ドリーム・ガールズ」(81年)と、ブロードウェイの演出振付家の第一人者として大活躍。ミュージカル界の未来を担う逸材として期待されたのだが、87年にエイズに倒れる。2006年の再演版「コーラスライン」は、ベネットへのオマージュかのように初演を忠実に再現。斬新でオリジナリティに溢れたこの作品は、今でも強烈なインパクトで観客を魅了し続けている。
ロンドンのウエスト・エンド・ミュージカルが、次々とブロードウェイに進出し始めたのが80年代だ。その先駆者となったのが82年に開幕したミュージカル「キャッツ」だ。作曲家アンドリュー・ロイド=ウエイバー(「ジーザス・クライスト・スーパスター」(71年)、「エビータ」(79年))と、ロンドンにベースを置く敏腕プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュによって制作されたこの作品は空前の大ヒット。2000年に閉幕するまで7485回のブロードウェイ史上歴代2位のロングランを記録している。さらにロングラン記録の第1位を保持、しかも現在でも上演されている「オペラ座の怪人」(88年)も、二人の共同制作によるものだ。
イギリス勢の作品に押されたブロードウェイに喝いれるかのようにジェローム・ロビンスが「ジェローム・ロビンスのブロードウェイ」(89年)を引き下げて戻って来た80年代、タップを存分に楽しめるミュージカルも続々と開幕する。注目を集めたのは、グレゴリー・ハインズ主演のミュージカル「ソフィスティケット・レイディーズ」(81年)、サウ゛ィオン・グローバーが12歳の時に主演した「タップ・ダンス・キッズ」(82年)、そして「ブラック&ブルー」(89年)だ。
一方、映画でも再びタップに脚光が浴び、グレゴリー・ハインズ、サミー・デイビスJr、少年時代のサウ゛ィオン・グローバーのタップを心ゆくまで堪能させてくれる映画「タップ」(88年)、グレゴリー・ハインツとバリシニコフが共演した「ホワイト・ナイツ/ 白夜」(85年)、リチャード・ギア主演の「コットン・クラブ」(85年)、ライザ・ミネリ主演の「ステッピング・アウト」(91年)など次々にタップにフィーチャーしたヒット作品が生まれた。この影響で、多くの若い黒人にタップ熱が起こり、その人気を決定的にしたのがサウ゛ィオン・グローバーだ。92年には「ノイズ&ハンク」のルーツともいえる「ジェーリーズ・ラスト・ジャム」で主演のグレゴリー・ハインツとタップの共演を果し、その5年後アフリカ系アメリカ人の音楽と歴史をファンクやヒップホップの音楽に乗せてタップで綴ったミュージカル「ノイズ&ファンク」が大ヒット。発案、振付、主演の3役のグローバーは96年度のトニー賞で振付賞を受賞。ヒップ・ホップ・タップ(パワータップ)の革命児となったのだ。
96年の最大のヒット作はなんといってもNYのイースト・ヴィレッジを舞台にしたロック・ミュージカル「RENT」だ。ロック・ミュージカルの元祖といえば60年代を象徴する反戦ミュージカル「ヘアー」(68年)であるが、エイズに侵されたボヘミアンたちを描く「RENT」は、それ以上のセンセーションを演劇界に巻き起こした。人々に衝撃を与えたのは作品だけではなかった。念願の初日を迎える前日に「RENT」の作家ジョナサン・ラーソンが大動脈瘤で亡くなると悲劇が襲ったのだ。この事実は演劇界だけにとどまらず、多くのメディアが社会問題として取り上げた。「RENT」は開幕から伝説と化され、異例の早さでオン・ブロードウェイに進出。しかも、短期間に前売りチケットを7億円売り上げ、その年のトニー賞、ピューリッツアー賞、オビー賞まで独占。開幕から10年経過した今もロングラン公演が続いている。
1998年、ジェローム・ロビンスが他界したことで、ブロードウェイはロビンス、フォッシー、ベネット3人の天才振付家を失うこととなる。しかし、そんな彼らの流れを引き継ぐ新鋭の振付家も続々と登場する。オフ・ブロードウェイ作品「And The World Goes Round」で注目され、92年のミュージカル「クレージー・フォー・ユー」の大ヒットで、振付家として一躍脚光を浴びたスーザン・ストローマンだ。その後、「ショー・ボート(再演/94年)、「ビッグ」(96年)の振付けを手がけ、「コンタクト」(99年)では演出家デビュー、そして彼女の振付家としての地位を不動のものにしたがミュージカル「プロデューサーズ」だ。白血病で亡くなった夫のマイク・オクレントに代わり演出を担当。トニー賞を12部門に渡って受賞し、ミュージカル史上に残る偉業を達成した。
さらに、アルヴィン・エリーをはじめ、様々なバレエ・カンパニーで振付をしているモダン・ダンス界の大御所トワイラ・サープも近年注目の演出・振付家である。ブロードウェイ・ミュージカルへの振付家デビューは「雨に歌えば」(85年)。しかし、トワイラ・サープの名を演劇界にとどろかさせたのはビリー・ジョエルとのコラボで話題になったミュージカル「ムービング・アウト」である。ボップなビリー・ジョエルの音楽でストーリーラインを創り、コンテンポラリー・ダンスをくっつけたジューク・ボックス・ミュージカルは、今までにないダンス・ミュージカルとして観客を魅了。2003年度のトニー賞では振付賞に輝き、日本を含めたワールドツアーも進行中だ。
この10年に渡るタイムズ・スクエアの変貌には目を見張るものがある。42丁目=“売春、ドラッグ、犯罪”という図式が過去のものとなり、誰でもが安全に楽しめる場所に様変わりしたのだ。その復興に一役かったのがNPO団体“THE NEW 42ND STREET,Incだ。ブロードウェイを中心とするシアター文化を復興させる目的で発足されたこの団体は、42丁目沿いの歴史的建造物の7つの劇場を運営管理。そのひとつであるリパブリカン劇場は、NY市によって11億円が投じられ、95年にNY初のファミリー劇場、ニュービクトリー劇場としてオープン。さらにディズニーはニュー・アムステルダム劇場の改築に36億円を投じNY市と共同で再建。ディズニーはニュー・アムステルダム劇場と49年間の賃貸契約を結び、アニメ映画の「ライオン・キング」で「美女と野獣」(1994年)に続くミュージカルを開幕させ大成功を収める。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生から140年。観客動員とチケット売上げは増加の一途をたどっている。しかし、ブロードウェイといえども、すべての作品がビジネスとして成り立っているわけではない。数十億かけた作品でも開幕後すぐに閉幕に追い込まれるものもあれば、「RENT」のように低予算でも巨額な利益を生むこともあるリスキーな厳しい世界だ。しかし、成功した作品にある共通点がある。それは、“新しいものに挑戦する勇気”だ。そのチャレンジ精神こそが、ブロードウェイで成功する作品の鍵であり、過去から現在、そして未来のブロードウェイを支えているのだといえる。
最後にりぃ様へ
ウエルカムバック ツー ジャパン![ニコニコ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif)
おフランスはどうだった???
きっと素晴らしい旅行だったのでは??
メルシーボク・・ケツクセ・・フランス語少し喋れます。
米倉、ブロードウェー「シカゴ」主演決まる
http://www.daily.co.jp/gossip/article/2012/03/16/0004888340.shtml
過去に主演俳優として
ブロードウェイの舞台にたった俳優といえば松本幸四郎さん。
「ラマンチャの男」に一ヶ月の限定で出演さえたことがあるが
それ以後、今陽子、島田歌穂などトライしたのだが実らず
![しょぼん](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/144.gif)
(米労働ビザの取得など、いろいろ厄介な問題もあるし・・)
それを考えると、たった一週間とはいえ、
一流の舞台俳優からなる「シカゴ」に出演するなんてスゴいぞ,米倉
余談だが、BWロングランミュージカルのベストテンはというと・・
(2012年3月現在)
1位 オペラ座の怪人
2位 キャッツ
3位 レミゼ
4位 シカゴ
5位 コーラス・ライン
6位 ライオン・キング
7位 オー!カルカッタ!
8位 美女と野獣
9位 レント
10位 マンマ・ミーア!
ついでにブロードウェイの雑学も
かなりの長文なので、時間のある方はどうぞ
「全ての芸術は模倣から始まる」といわれるが、ブロードウェイも例外ではない。ミュージカルの誕生以来、ゼロから想像されることなく、先駆者的な作品から大きな影響を受けて、現在のミュージカル作品と繋がっている。
ブロードウェイ初のミュージカルといわれているのが“THE BLACK CROOK”「黒い悪魔」(1866年)だ。ストーリー・ラインはなく、歌、芝居、レビューをごちゃ混ぜにしたお粗末なショーであったが、パリの女性バレエ団100名をタイツ姿で特別出演させたことが大きな反響を呼び、当時しては異例のロングラン(475回)となる大成功を収めた。
20世紀に突入すると同時に本格的なレビュー・ショーの時代が到来する。その生みの親となったのがショー作りの天才、フロレンツ・ジーグフェルドだ。彼は1907年に豪華な舞台と着飾ったショー・ガールを目玉としたレビュー・ショー「フォーリーズ」を制作。1911年にはタイトルを「ジーグフェルド・フォーリーズ」と改名し、1931年まで21本のシリーズを上演。レビュー史上最高の評判と最長の継続期間を記録する。その伝統は、現在のミュージカルのみならず、ラジオ・シティ・ミュージックホールの「クリスマス・スペキュタキュラー」のロケッツにも継承されている。
ブロードウェイ・ミュージカルの原点といえる作品が、1927年に開幕した「ショー・ボート」だ。発案はブロードウェイ・ミュージカル界の創始者的な作曲家、ジェローム・カーンと、ブロードウェイで最も成功した作詞家のひとり、オスカー・ハマースタイン二世。人種問題をテーマに、初めて白人と黒人が同じ舞台に立つという革命的な演出を取り入れ、音楽が物語の流れに巧みに組み込まれた、初めての本格的なミュージカルだといわれている。
30年代に注目を集めたのが「ボビーとベス」である。作曲はアメリカ音楽界の大巨匠、ジョージ・ガーシュイン。ジャズとクラシックを融合させた楽曲は大絶賛。演劇関係者の間で話題を集めたものの、重く寂しいストーリーに観客の反応は冷たく、商業演劇としては失敗。しかし、現在、舞台芸術として高く評価され、たびたび再演されているばかりか、劇中歌「サマータイム」はジャズのスタンダードナンバーとして世界中に広く知れ渡っている。(現在、ブロードウェイで再演版が上演中)
また、ミュージカル界に新しい方向性を切り開いたのが、リチャード・ロジャース(1902~79年)とロレンツ・ハーツ(1919~43年)のコンビによって創作された「オン・ユア・トウズ」である。小粒ながら、詩にメッセージ性が強く、曲はエレガントで演劇ファンに高く評価されている隠れた名作である。振付には20世紀を代表するバレエ振付家ジョージ・バランシンを起用。バレエをストーリーの展開に重要な要素として取り入れたことが、のちのミュージカル界に多大なる影響を与えた。
1929年、株価の暴落で世界大恐慌となり、景気が良かったブロードウェイも大打撃を受ける。多くの劇場が閉鎖に追い込まれ、ミュージカルの規模も縮小される。そんな混沌とした時代から10年後の1943年、新しいミュージカルの時代の到来を予感させたリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世(以下「R&H」)のコンビが誕生する。その記念すべき第一作が「オクラホマ」だ。音楽と芝居が融合し、歌で物語を伝えたことは当時としては画期的であった。また、振付家、アグネス・デ・ミルによって、登場人物の性格や感情を、歌と踊りで表現するクラシック・バレエの技法”ドリーム・バレエ”を初めて取り入れた記念碑的な作品ともいえる。それ以降、「R&H」は「回転木馬」(1945年)、「南太平洋」(1949年)、「王様と私」(1951年)、そして「R&H」の最後の共同制作となった「サウンド・オブ・ミュージック」(1959年)など、ミュージカル史上に残るばかりか、劇中歌がひとり歩きしてスタンダード・ナンバーの名曲となっている。
こうした偉大な作詞・作曲家とともに、50年代以降のブロードウェイを支えたのが振付家や演出家である。その代表格はジェローム・ロビンスだろう。20世紀後半のクラシック界を代表する作曲家、レナード・バーンスタインと組んだミュージカル「オン・ザ・タウン」(44年)で振付家デビューした彼は、48年以降、演出としても才能を発揮。「ジプシー」(59年)、「屋根の上のヴァイオリン弾き」(64年)など大ヒット作を次々に手がける。しかし、なんといっても彼の名を永遠のものにしたのは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにしたミュージカル「ウエストサイド物語」(57年)である。
ロビンスと同様に60~70年代にかけて活躍したのが振付家、ガワー・チャンピオン。60年代以降は振付・演出家として、「バイ・バイ・バーディー」(60年)、「ハロー・ドーリー!」(64年)、そして代表作といわれているのが「フォーティ・セカンド・ストリート」(80年)である。敏腕プロデューサー、デビット・メリックが、マスコミの注目を集める為に、白血病で病んで行くチャンピオンが亡くなるまで、「フォーティ・セカンド・ストリート」の初日を延ばした話は有名だ。
ロビンスが演出を手がけたミュージカル「パジャマ・ゲーム」(1954年)で振付家デビューをしたのはボブ・フォッシーだ。自分のコンプレックスを目立たなくするために編み出した振付は、エロティックでありながら決してユーモアを失わず、つま先や指先にまで細心の神経を注いだ独特なものだ。フォッシーはデビュー以後、「くたばれ!ヤンキース」(55年)等の振付を行い、「レッドヘッド」(59年)から演出も手がけるようになり、「ピピン」(72年)、「ダンシン」(78年)などのヒット作ではフォッシーの振付の魅力を存分に発揮。なかでも映画化された「スウィート・チャリティ」(66年)と「シカゴ」(75年)は大絶賛を浴びたフォッシーの代表作だ。その刺激的でエキサイティングな、まるで演じているようなダンスは、ミュージカル界だけでなく、マドンナやマイケル・ジャクソンにも大きな影響を与えている。
さらに、偉大な振付家といえば、「コーラスライン」(75年)の発案者、マイケル・ベネットだ。(1943~87年)ロンビス、フォッシーと同様にダンサーとしてデビューした彼は、振付家として「プロミセズ・プロミセズ」(68年)、「カンパニー」(70年)に関わり、「フォリーズ」(71年)、「シーソー」(73年)の演出振付を経て、「コーラスライン」、「ドリーム・ガールズ」(81年)と、ブロードウェイの演出振付家の第一人者として大活躍。ミュージカル界の未来を担う逸材として期待されたのだが、87年にエイズに倒れる。2006年の再演版「コーラスライン」は、ベネットへのオマージュかのように初演を忠実に再現。斬新でオリジナリティに溢れたこの作品は、今でも強烈なインパクトで観客を魅了し続けている。
ロンドンのウエスト・エンド・ミュージカルが、次々とブロードウェイに進出し始めたのが80年代だ。その先駆者となったのが82年に開幕したミュージカル「キャッツ」だ。作曲家アンドリュー・ロイド=ウエイバー(「ジーザス・クライスト・スーパスター」(71年)、「エビータ」(79年))と、ロンドンにベースを置く敏腕プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュによって制作されたこの作品は空前の大ヒット。2000年に閉幕するまで7485回のブロードウェイ史上歴代2位のロングランを記録している。さらにロングラン記録の第1位を保持、しかも現在でも上演されている「オペラ座の怪人」(88年)も、二人の共同制作によるものだ。
イギリス勢の作品に押されたブロードウェイに喝いれるかのようにジェローム・ロビンスが「ジェローム・ロビンスのブロードウェイ」(89年)を引き下げて戻って来た80年代、タップを存分に楽しめるミュージカルも続々と開幕する。注目を集めたのは、グレゴリー・ハインズ主演のミュージカル「ソフィスティケット・レイディーズ」(81年)、サウ゛ィオン・グローバーが12歳の時に主演した「タップ・ダンス・キッズ」(82年)、そして「ブラック&ブルー」(89年)だ。
一方、映画でも再びタップに脚光が浴び、グレゴリー・ハインズ、サミー・デイビスJr、少年時代のサウ゛ィオン・グローバーのタップを心ゆくまで堪能させてくれる映画「タップ」(88年)、グレゴリー・ハインツとバリシニコフが共演した「ホワイト・ナイツ/ 白夜」(85年)、リチャード・ギア主演の「コットン・クラブ」(85年)、ライザ・ミネリ主演の「ステッピング・アウト」(91年)など次々にタップにフィーチャーしたヒット作品が生まれた。この影響で、多くの若い黒人にタップ熱が起こり、その人気を決定的にしたのがサウ゛ィオン・グローバーだ。92年には「ノイズ&ハンク」のルーツともいえる「ジェーリーズ・ラスト・ジャム」で主演のグレゴリー・ハインツとタップの共演を果し、その5年後アフリカ系アメリカ人の音楽と歴史をファンクやヒップホップの音楽に乗せてタップで綴ったミュージカル「ノイズ&ファンク」が大ヒット。発案、振付、主演の3役のグローバーは96年度のトニー賞で振付賞を受賞。ヒップ・ホップ・タップ(パワータップ)の革命児となったのだ。
96年の最大のヒット作はなんといってもNYのイースト・ヴィレッジを舞台にしたロック・ミュージカル「RENT」だ。ロック・ミュージカルの元祖といえば60年代を象徴する反戦ミュージカル「ヘアー」(68年)であるが、エイズに侵されたボヘミアンたちを描く「RENT」は、それ以上のセンセーションを演劇界に巻き起こした。人々に衝撃を与えたのは作品だけではなかった。念願の初日を迎える前日に「RENT」の作家ジョナサン・ラーソンが大動脈瘤で亡くなると悲劇が襲ったのだ。この事実は演劇界だけにとどまらず、多くのメディアが社会問題として取り上げた。「RENT」は開幕から伝説と化され、異例の早さでオン・ブロードウェイに進出。しかも、短期間に前売りチケットを7億円売り上げ、その年のトニー賞、ピューリッツアー賞、オビー賞まで独占。開幕から10年経過した今もロングラン公演が続いている。
1998年、ジェローム・ロビンスが他界したことで、ブロードウェイはロビンス、フォッシー、ベネット3人の天才振付家を失うこととなる。しかし、そんな彼らの流れを引き継ぐ新鋭の振付家も続々と登場する。オフ・ブロードウェイ作品「And The World Goes Round」で注目され、92年のミュージカル「クレージー・フォー・ユー」の大ヒットで、振付家として一躍脚光を浴びたスーザン・ストローマンだ。その後、「ショー・ボート(再演/94年)、「ビッグ」(96年)の振付けを手がけ、「コンタクト」(99年)では演出家デビュー、そして彼女の振付家としての地位を不動のものにしたがミュージカル「プロデューサーズ」だ。白血病で亡くなった夫のマイク・オクレントに代わり演出を担当。トニー賞を12部門に渡って受賞し、ミュージカル史上に残る偉業を達成した。
さらに、アルヴィン・エリーをはじめ、様々なバレエ・カンパニーで振付をしているモダン・ダンス界の大御所トワイラ・サープも近年注目の演出・振付家である。ブロードウェイ・ミュージカルへの振付家デビューは「雨に歌えば」(85年)。しかし、トワイラ・サープの名を演劇界にとどろかさせたのはビリー・ジョエルとのコラボで話題になったミュージカル「ムービング・アウト」である。ボップなビリー・ジョエルの音楽でストーリーラインを創り、コンテンポラリー・ダンスをくっつけたジューク・ボックス・ミュージカルは、今までにないダンス・ミュージカルとして観客を魅了。2003年度のトニー賞では振付賞に輝き、日本を含めたワールドツアーも進行中だ。
この10年に渡るタイムズ・スクエアの変貌には目を見張るものがある。42丁目=“売春、ドラッグ、犯罪”という図式が過去のものとなり、誰でもが安全に楽しめる場所に様変わりしたのだ。その復興に一役かったのがNPO団体“THE NEW 42ND STREET,Incだ。ブロードウェイを中心とするシアター文化を復興させる目的で発足されたこの団体は、42丁目沿いの歴史的建造物の7つの劇場を運営管理。そのひとつであるリパブリカン劇場は、NY市によって11億円が投じられ、95年にNY初のファミリー劇場、ニュービクトリー劇場としてオープン。さらにディズニーはニュー・アムステルダム劇場の改築に36億円を投じNY市と共同で再建。ディズニーはニュー・アムステルダム劇場と49年間の賃貸契約を結び、アニメ映画の「ライオン・キング」で「美女と野獣」(1994年)に続くミュージカルを開幕させ大成功を収める。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生から140年。観客動員とチケット売上げは増加の一途をたどっている。しかし、ブロードウェイといえども、すべての作品がビジネスとして成り立っているわけではない。数十億かけた作品でも開幕後すぐに閉幕に追い込まれるものもあれば、「RENT」のように低予算でも巨額な利益を生むこともあるリスキーな厳しい世界だ。しかし、成功した作品にある共通点がある。それは、“新しいものに挑戦する勇気”だ。そのチャレンジ精神こそが、ブロードウェイで成功する作品の鍵であり、過去から現在、そして未来のブロードウェイを支えているのだといえる。
最後にりぃ様へ
ウエルカムバック ツー ジャパン
![ニコニコ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif)
おフランスはどうだった???
きっと素晴らしい旅行だったのでは??
メルシーボク・・ケツクセ・・フランス語少し喋れます。