愉快@YUKAIの時の当日パンフレットの文章より











ごあいさつに代えてひとりごと

この間、もう20年以上も付き合いのある同級生と久しぶりにゆっくりお酒を飲みました。

焼酎を何杯もお替りし、ベロベロに酔っ払ったその人は他のお客さんの席に行きそのテーブルの料理を食べたり、見ず知らずの方に「ハゲチャビン注げ!」と言って酒をつがせたり、僕の鼻の穴に指を入れたまま僕に説教をしたりとかなり羽目をはずしていました。僕は、「ああこの人もかなりストレスが溜まっているんだなあ。」と感じ、こんな時こそ旧友として、「やさしく接しなきゃ」と心を決め、一旦トイレに行って体制を整え、その人がはしゃいでいるテーブルまで助走をつけてドロップキックを決めました。しかし相手は同ずることなく鼻血を出しながらも片手で僕にヘッドロックをかけながら,自分の夢を大声で一方的に語り、そして飲み続け、不覚にも気絶してしまった僕の財布からお金を抜き取り、他のテーブルのお客さんの分まで支払いをすませ自分だけタクシーを呼んで帰っていました。

 ちなみにその旧友は女性です。

しかも驚くことにこの出来事は実話にもとづいています。

 それからずっと芝居の稽古でこの日のことは忘れていたのですが、フト彼女のことが気にかかり、それでも何だか電話をするのも癪だったので、彼女のブログを覗いたらその日のことが書いてありました。

 そして、そこには劇団を主宰する僕を心配する内容が書かれていました。共通の師匠の生き方に影響されている僕が師匠に追いつこうと背伸びをして無理をしていることをそれとなく気遣ってくれている内容が書かれていました。

 なんだか少し複雑な気持ちになりました。

 それは「ありがたいなあ」と思う気持ちと「大きなお世話だ」という気持ちや「水臭いなあ」という気持ちが入り混じったものでしたが、よく考えるとあの日あれだけベロベロに酔っ払われていても周りは嫌な気持ちにはなってなかったように感じました。

 特に僕は「元気」をもらっていました。

 人が他人の全てを理解できることはきっと無理だと思います。けれども自分の子どもだったり、愛する人だったり、配偶者だったりすると「無償の愛」という綺麗な言葉で理解しようとしてしまいます。それはとても傲慢なことだす。でもホンの一瞬だけ、間違っているかもしれない、勘違いかもしれないけど儚い一瞬だけでもそう思える瞬間は確かにあるし、人はソレを望んでいます。誰かを理解したいし、理解されたいのだと思います。だから歌の歌詞なんかによく「この一瞬が永遠に続け・・・・」なんていうのが多いのかもしれません。

 本日はお忙しい中、足をお運びいただきまして本当に、本当にありがとうございます。

 お酒の席で感じる一瞬からはもうそろそろ卒業しようかな・・・と思っています。

 その代わり稽古場や劇場の中で感じる一瞬をこれからも大切にしていきたいと本番前の「一瞬」に感じています。





※この公演の時期は「厄ばれのパーテイ」で、一人芝居の初日まで禁酒をしていたので本気でお酒をやめようと考えていました。

実際に初日までは禁酒できましたし、その後も一人芝居の公演前は禁酒をしていましたが、公演のあとはその反動で飲むようになり、たぶん年間飲酒量は前より増えたのではないかと思われます。