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日本文化と日本人

日頃、思ってみたりしていること、この日本社会のこと、日本人のことなどエッセイ風につづる。

ホンネが本当に見えて、実は本当ではない、ということについては、こんな事例をあげてみるといいも知れない。

ここに浮気をする主婦がいて、彼女は主観的には、偶然の出会いがあって、その出会いにときめいて浮気に走ったと振り返る。でも、それとは別に、彼女には「夫への不満と煩わしい家事から逃れたい」という家庭内の問題があり、そのために浮気に走ったのが実際の理由であった。

ということは、彼女が浮気に走った動機のホンネは「夫への不満と家事の煩わしさ」からの逃避ということになり、彼女の浮気はタテマエに過ぎなかったということになる。

このようにホンネとタテマエは相互補完性があり、片方がなくなると片方もなくなるのだ。つまり、「夫への不満と家事の煩わしさ」が解消されると、それと共に浮気の動機もなくなり、浮気が止む、ということになるのである。

 

 

タテマエは建前、その意味は「表向きの方針、原則」といった意味で使われ、ホンネは本音、その意味は「本心から出た言葉」といった意味で使われる。しかも、最近は、ホンネで物を言う、ことがもてはやされている感がある。

一例をあげると、政治家の問題発言がある。失言を発した当の本人が、その後、その発言をどう処理したか、それはホンネとタテマエの使い分けの好例として参考になる。

失言の当人が、失言を問われると、発言の内容は、それは私の信念であるといい、撤回しないと言い張る。が、そのうち周囲の状況をみて、発言を撤回する。その時の説明が日本独特なのだ。私のホンネは間違っていなかったが、公人としてタテマエ上、前言を撤回する、というものだ。こうしてホンネは無傷のまま温存され、タテマエとホンネの論理は生き続ける。このタテマエとホンネの「二重思考」が通用するのは、何よりも、我々国民がそれを認めているからだといえる。もっと言えば、ホンネの共同体の中に我々は生きているということになる。しかも、ホンネとタテマエの最大の核心は本当のようにみえるホンネが実は本当ではないというところにある。