タテマエとホンネの関係は並列的ではない。タテマエが優先され、ホンネは従属的である。この社会ではそのように要求されている。タテマエが集団の論理にもとづくものとして存在しつづけ、それが個々の人間にタテマエに拠るように要求する。これに従う個々人は意識的と無意識的とにかかわらず、他律的にタテマエに従う。が、これに従う個人は、心の底でこのタテマエを信じていなくて、虚無的である。
タテマエとホンネを別の視点から考えてみよう。
タテマエとは集団の論理であり、ホンネは個の論理であろう。
集団の論理としての行動規範がこの社会を支配していて、いわゆる「空気」を読むとはまさにこれを言っている。この行動規範はあくまで他律的であり、判断の基準は自分にはなく自律的ではない。
この自律と他律の概念は欧米人と日本人の性格の基本的属性を区別する指標として有効である。
実際は、ホンネは信念でも本心でもない、ということについて。
タテマエは真ではなく、ホンネも真ではない。タテマエとホンネという考え方の底にあるものは、「どっちでもいい」という日和見的ニヒリズムがある。ホンネとタテマエはお互いに相補性的で、相対的な関係構造のなかにある。そこには共に真であり、真でないというニヒリズムが潜む。
こうしたニヒリズムから派生するのはつねに傍観者的態度である。政治的態度について例をあげれば、当事者意識ではなく、自分とは関係のないところで起こるさまざまな政治的事象として遠くから眺めやる。従って、自分がそこに参加して現状を変えようとする姿勢はなく、ほがら峠を極め込むだけである。結果、現状追認ということになる。