昨年2015年は、11月前半まで資格試験の勉強でブログが書けなかった。だが、11月中旬、遅くとも12月中には、新しい記事が書けると思っていた。
 
ところが、11月14日から急遽インドのワンネスユニバーシティに、原先達と行くことになった。そして、バガヴァンからダルシャンとゴールデンオーブディクシャを受けてきた。
 
20日に帰国したが、翌日は一路熊本へ。昨年5月の奄美ツアーは行けなかったが、魔女からのご指名で今回の天草ツアーには参加した。実は、インドツアーも、原先生からのご指名だった。
 
魔女は、昨年1月の真名井神社ツアーあたりから、いよいよ神懸(か)ってきた。その魔女から、天草でエネルギーを入れてもらった。

天草の翌日は、八代に移って妙見祭を見物。23日に帰宅すると、24日は原先生のOMBに参加して、バガヴァンのエネルギーを目から注入した。
 
だが、インド、天草、OMBと立て続けにエネルギーを入れすぎた。その結果、体内で波動摩擦を起こし、体力が消耗した。それで、インドからの帰国便で引いた風邪が悪化し、2週間ほど寝込んでしまった。
 
その後、体調不良が年末まで続いた。しかし、インドと天草での経験は、そのマイナスを補って余りあるほど素晴らしかった。これらのことについては、いずれ改めて書きたい。
 
ところで、私は生まれも育ちも東京で、会社を6回変わった。だが、関東を離れたことは1度もない。しかし、2月から孔先生の事務所で働くために、今回は大阪に移る。

しかも、今の半分のスペースの住居に・・・。本屋が開けるほど蔵書があるから、それを半減させるのは大変だ。
 
実際、3年前に広島県福山市に引っ越そうとした時は、なかなか本が捨てられなかった。しかし、今回はすでにかなりの本を処分した。あれから3年経って、ようやく自分がやるべきことがはっきりしたからだ。
 
昨年12月の冬至をピークとして地球の波動がまた上がった。次のピークは節分だが、それと相まって時間がますます短くなる。もうあれこれやっている暇はない。だから、目標を2つに絞ることにした。それらについても、これからの記事の中で触れていく。
 
前置きがながくなったが、そろそろ本題に入る。前回は、止観で最初にブレークスルーした時の話をした。今回は2回目のブレークスルーの話をする。

ブレークスルーは3回経験したが、2回目
のインパクトが最も強かった。なぜなら、この時初めて自分の中の闇と向き合ったからだ。そして、それを経験した時期は、2013年のちょうど今頃だった。
 
前回は、父の株の信用取引が原因で父とケンカし、私が実家を出たところまで書いた。

その後一度、父が心筋梗塞で病院に担ぎ込まれたことがあった。その時は、私も心配して病院に駆け付けた。
 
だが、その入院がきっかけで、父がまだ信用取引をしていることが発覚した。父は母に信用取引はやめると宣言していた。しかし、実は影で続けていたのだ。それで、私は心底父が嫌になった。だから、その後、父が目の手術をした時も、見舞いに行かなかった。
 
それでも、父から電話をかけてきたことは数回あった。しかし、株の金を借りる目的が透けて見えたので、ほとんど相手にしなかった。だから、父は母に命じて、私に電話をかけさせたこともある。
 
その時も母とは話したが、父に代わるとすぐに電話を切った。こうして私が金を貸さなければ、父は大きな信用取引ができないはずだ。そう思って、高を括っていた。
 
ところが、その想定は見事に覆された。身内の中に別の貸し手がいたからだ。それが姉だった。彼女とは小さいころから一緒に育ってきた。だから、実質的には姉だったが、血縁上はあくまで母方の姪だ。
 
それが、これから述べる事件の処理のため、父の死後、母と養子縁組をした。それで今は、戸籍上も私の姉になっている。
 
その姉が、父の店で働いていて貯めたお金を父に貸したのだ。しかも、かなりの高額を・・・。
 
私は、母からの電話でそのことを知った。父がとうとう姉の預金通帳まで預かると言い出した!!母は、そう私に訴えてきた。それで、もう家出させるしかないと思い、即座に実行した。
 
当時店は、父、母、伯母(母の姉)、姉の4人で運営していた。私は母と姉には、以前から家を出るよう勧めていた。だが、2人ともずっと躊躇していた。しかし、今回は我慢も限界に達したようで、遂に決断してくれた。
 
それで、伯母は長男の家に行き、母と姉は私の自宅に匿った。父は私の住所を知らず、見つかる心配はなかった。
 
当然、父から電話がかかってきたが、何食わぬ顔で対応した。そして途中から、母と姉から連絡があったことにして、その仲介役を演じた。

その間
2週間ほど、私と父の間でいろいろな攻防があった。父が銀行にウソをついて姉の預金を引き出せないようにしたからだ。しかし、その詳細は省く。読者の方も、そんなどろどろした話は読みたくないだろう。

私が身内の恥を敢えて晒すのは、心の浄化の前後で、私の父に対する見方がどう変わったかを知ってもらいたいからだ。できれば、私もこんなことは書きたくない。
 
最終的に、父は折れた。寂しがり屋の父は、長女の妹に毎日電話していた。だが、さすがにその嫁ぎ先に転がり込むことはできなかった。また、次女の妹は、当時はまだ行方不明だった。
 
それで、父は伯母(父の姉)を介して、どんな条件でも飲むと連絡してきた。父、伯母、母、姉、私の5人で協議した結果、まず父に姉への借金の証書を書かせて実印を押させた。そうしないと、うやむやにされる恐れがあったからだ。
 
そのとき父は、借金を返せない時は、姉に実家を相続させると約束した。姉と母の養子縁組をしたのは、この口約束に法的実行性を持たせるためだ。
 
さらに、父に離婚届けにも記名・捺印させて、いつでも離婚できるようにした。これで父の信用取引を完全に封じることができた。
 
その後、姉は伯母(母の姉)の家に移り住んで、父の店で働いた。しかし、伯母の介護の必要上、数年後に姉は伯母と一緒に実家に戻った。そして、伯母の死後も実家に居続け、今は母と2人で暮らしている。
 
その伯母の葬式に、私は海外出張で立ち会えなかった。それで、帰国後に香典と花を持って行ったが、実家の中には入らなかった。父の顔を見たくなかったからだ。
 
5人で協議した時の父の顔は、ぞっとするほど醜かった。家を出て6年経つとこんなに変わるのか。そう思うほどの変わり様だった。幼い頃の父の良いイメージまでが崩れてしまう。それが嫌で、実家には一切寄り付かなかった。

その状況は2011年の10月以降、原先生のところで父のシートに取り組んだにもかかわらず続いた。

心の浄化の目的はわだかまりのある人との調和にある。だから、シートをする以上、当然実家にも行かなければならない。だが、当時の私はまだそこから逃げていた。

確かに、シートのおかげで父に対する憎しみは緩和された。しかし、あんな醜悪な顔はもう2度と見たくなかったさらに、どうしても自分から父に謝る気にもなれなかった。、
 
けれども、父と会う機会は突然訪れた。2012年の1月に姉を介して、父が私に会いたいと言ってきたからだ。私は自分から謝らないことを条件に父と会うことにした。ただ、顔を見たくないという思いはまだ残っていた。
 
ところが、実際に会ってみると、父の顔が柔和になっていた。最後に会った時からすでに13年が経過していた。さすがに髪は全部白くなり、目もほとんど見えなくなっていた。しかし同時に、金の亡者の形相は表情から消えていた。
 
父とは2時間ぐらい話をした。ほとんどが、私が家を出てからの経過についての質問だった。父からの謝罪はなく、私も詫びなかった。帰りがけに父はいつでも来いと言ったが、当分の間、実家に行くつもりはなかった。

ただ会っただけで、とても調和と呼べる代物(しろもの)ではなかった。けれども、私の真我は、逃げることを許さなかった。だから、3つの事件を次々に起こし、私を調和せざるを得ない状況に引き戻した。

最初の事件は、2012年の6月に起きた。プロフィールにも書いたように、突然網膜剥離になって手術をしたのだ。そして、退院後も3週間、うつ伏せ状態を保たなければならなかった。手術で目に注入したガスが、急速に抜けないようにするためだ。

その状態で1人で生活するのは大変だ。なので、1月半ほど実家で療養することにした。
 
次の事件は、8月上旬に会社に復帰した翌週に起きた。上司が突如アメリカから飛んできて、部下全員に解雇を言い渡したのだ。

日本法人としては、前年以上に売り上げと利益をともに伸ばしていた。しかし、リストラは世界全体のバランスを見て行われた。上の決定に、私も従うしかなかった。
 
それで9月から1人で働くことになり、仕事量が倍に増えた。しかも、それが災いして、再び網膜が腫れてきた。そうなると、網膜が再び剥がれる恐れがある。再手術ともなれば、最悪左目を失明するかもしれない。そう思って、退職を決意した。
 
幸い9月の舩井オープンワールドで魔女の存在を知り、10月に彼女のヒーリングを受けた。それで、再び剥離する心配はなくなった。医者も驚いていたが、縮んでいた傷口が伸びたからだ。
 
しかし、魔女のヒーリングでも、増えた仕事量に耐えらるほど、一気に目は良くならなかった。だから、退職の決意は変わらなかった。
 
だが、事務所を畳んで退職するのは容易でない。管財人の取り決めや、部下の退職金の一括払いの交渉、事務所閉鎖の手続き等も全部1人で行わなければならなかった。
 
その時の過労がたたり、10月末の退社後は、2週間起き上がれなかった。

しかし、11月の3週目には広島県福山市に向かった。いずれは有機農業をしようと、そこに土地を借りていたからだ。
 
土地の開墾は既に終えていた。だが、プレハブの設置や、敷地内の坂の舗装などの工事がまだ残っていた。それらを、農業の師匠である山本さんと2人で行った。山本さんは、セレネの付き人でもある。
 
坂の舗装をやり直すことになり、引っ越しを1月に延期した。それで、冬至の前に一旦自宅に帰った。
 
だが、その2週間ほど前から、ものすごい不安と孤独感が襲ってきた。父と違って、1人でいることが平気な私が、なぜか胸が痛くなるような人恋しさを感じる。自分でも不思議だった。
 
帰りがけに神戸でセレネに会って、そのことを相談した。彼女は、今の時期に不安を感じるのはむしろ良いことだという。しかし、その不安がどこから来るかは不明だった。それは、12月22日に、東京で魔女のセミナーに参加しても一緒だった。
 
それで、久しぶりに実家に立ち寄ることにした。気がかりが1つあったからだ。
 
話が少し遡るが、3番目の事件は9月の初めに起きた。父が急に肺炎になって入院したのだ。しかも、それが引き金で認知症になり、退院後も実家で徘徊するようになった。
 
父が目の見えない状態で歩き回るため、片時も目が離せない。介護疲れで母も入院し、その後は姉と年上の妹が介護した。しかし、それも限界に達し、妹が見つけてきた民間の老人ホームに父を移すことにした。
 
そのように、9月に姉が電話で知らせてきた。しかし、9月といえば、まだ癒えない目で倍の仕事をこなしていた時期だ。自分のことで精一杯で、姉と妹の決定に委ねるしかなかった。
 
だが、その後の状況が気になったので、実家に戻った時にいくつか質問した。すると、このままでは実家が経済的に立ち行かなくなることが判明した。
 
何と民間の老人ホームの費用は月額23万円だった。当時はもう店もやめていたので、実家の収入は年金しかない。しかも、蓄えも大してなかった。
 
私が会社を辞めなければ、何とかなった。だが、農業ではそれほど稼げない。農業は食糧危機に備えたもので、稼ぐことは二の次にしていたからだ。
 
この状況を放置して福山に行くか。それとも、農業を諦めて、別の仕事を探すか。福山の土地にはそれなりのお金と労力をつぎ込んできた。諦めればすべてがパーになる。だが、実家の経済的破綻を見過すわけにもいかない。
 
私は大きな決断に迫られた。それで、正月にもかかわらず、初めて自宅で原先生の止観シートを行った。今までは、集中力を欠くので、自宅でシートはできなかった。しかし、そんなことを言ってられないほど、当時の私は追い詰められていた。
 
前回の記事で述べたように、止観には大項目だけでも、イからトまである。だが、大事なのは、イ、ロ、ハの3つだ。最初のイでは、自分の負の感情をシートに書いて吐き出す。
 
実家を出てから、再び父に会うまでの負の感情については、すでに過去のシートでかなり放出した。だが、実家で療養中に見た父の母に対する態度には腹が立っていた。
 
そして、何よりもこの時、いつまで家族に迷惑をかける気だと内心で怒り狂っていた。それで、どんどんシートに父の悪口を書いていった。
 
次のロでは、相手にどのような人であってほしかったのかを書く。つまり、相手に対する自分の理想像を書くわけだ。そしてハでは、自分が相手に対してどのような心で接してきたのかを書く。
 
原先生のシートはとてもよくできていて、ロは真我の自分、ハは偽我=マインドの自分を表わす。しかし、偽我といえども自分の1部であることには変わりがない。
 
ロの自分とハの自分は全く対照的だが、どちらも自分自身なのだ。そしてハの項目こそが、自分がどういう人間であったのかを映す鏡の役割を果たしている。
 
問題は、ハで露わにされた醜い自分を、自分の分身として認められるかどうかだ。ここが心の浄化の最大の難関になる。
 
私は、この関門をなかなか突破できなかった。いや、むしろ後退したことさえある。
 
私は渋谷先生を真似て、「自分がどういう人間だったか、とことん見せてください」と真我に祈ってから、いつもシートを始めていた。しかし、ハの自分をそんなことはないと否定していた。
 
けれども、この時ばかりは、自分の醜さを受け入れざるを得なかった。シートを書いている最中に、ふと、「好き好んでやっているわけではない」という言葉が腹の底から浮かんできたからだ。
 
そう、父は好き好んで認知症になったわけではない。それなのに、被害者意識に毒されていた私は、父が早く死ねばいいとまで思っていた。
 
私は今まで父の醜さ、身勝手さをずっと非難してきた。しかし、私自身も負けず劣らず醜く身勝手だった。まさに、目くそ鼻くそを笑うとはこのことだ。それに気付いた時は、本当に愕然とした。
 
鏡の法則は実在する。父の醜い行為は、私の内面の醜さの反映にすぎない。父は鏡となって私に私自身の醜さを見せてくれたのだ。このことをようやく悟った。

そして、自分の醜さ、自分の中の闇から目を背けて逃げても、必ずそれを直視させられる出来事が起こる。上の3つの事件は、まさにそれだった。

結局私は、福山には行かず、こちらに残って父と向き合おうと決心した。それで、父の施設を訪ねた。
 
そこで目にしたのは、薬漬けにされて、人相が変わった父の姿だった。本当に、初めは父だとわからなくらいの変貌だった。この時初めて、私が感じた不安と孤独感は、父が感じていたものだということを理解した。
 
とにかく早急に、父をどこか別の施設に移さなければならなかった。それで、1月中旬に原先生のOMBに参加し、アンマ・バガヴァンに父の施設が見つかるように祈った。私は今だかつて、この時ほど真剣に祈ったことはない。
 
ところで、OMBの後、講師の吉岡さんから顔が変わったと声をかけられた。自分ではわからないが、心の浄化が進むとどうも顔が変わるらしい。

昨年11月にワンネステンプルのエネルギーワークで浄化した後にも
、原先生のスタッフの目黒さんから表情の変化を指摘された。その直後の天草ツアーで、魔女も私の顔が変わったという。要は、顔つきが変わるぐらいでないと、真の浄化をしたとは言えないのだ。
 
幸い必死の祈りは、アンマ・バガヴァンに届いた。公的制度をうまく使って、施設の月額費用を年金近くまで抑える方法を友達が教えてくれた。
 
また、OMBの数日後、実家近くの福祉センターに行くと、埼玉県のある老健を紹介された。早速電話をすると、電話に出た相談員のHさんは、同じ県内にある父の施設を翌日に訪ねてくれた。そして父の様子を確認後、すぐに父の受け入れを手配してくれた。

彼女自身も素晴らしく有能だが、
有能な人は有能な人とつながる。特養は一生居られるが、老健には原則3か月しかいられない。しかし、次の老健も彼女が紹介くれた。
 
また、認知症専門の精神病院も彼女からの紹介だ。ここの女医さんも、若いがすごく優秀で、彼女の薬の調合で父の徘徊が収まった。
 
さらに、彼女はケアマネージャのWさんも紹介してくれた。彼女も抜群で、特養への道を開いてくれた。
 
特養にはなかなか入れない。だから、通常はそれまで老健を転々とする。しかし、Wさんは特養に移れる老健を紹介してくれた。
 
けれども、老健を変更することには懸念があった。なぜなら、環境が変わると、父が精神的に不安定になるからだ。2番目の老健は父にとても適していた。だから、症状も安定していて、できればずっとここに居てもらいたかった。
 
だが、多少の延長は可能だが、何年もそこに居続けることはできない。それで、最終的に特養につながる老健に父を移すことにした。
 
けれども皮肉なことに、その老健に移って1カ月ほどして、父が急性肺炎で入院した。一時はかなり回復したが、入院の10日後に容態が急変した。そしてその日の内に、家族全員に看取られながら息を引き取った。2013年の12月のことだ。

最後は、私が右側、姉が左側に座り、2人でヒーリングして父を上に上げた。こうすることは、魔女から教わった。実際に、彼女も両親をヒーリングで光に還している。
 
親不孝者の私だが、これだけは親孝行できたと思っている。ヒーリング中は肺炎にもかかわらず、楽に呼吸をし、死に顔も穏やかだったからだ。
 
しかし、老健を替えたことには悔いが残った。けれども、最後にWさんと話した時に吹っ切れた。
 
最後の老健は、やはり埼玉県内にある。だが、それまでのどの老健よりも、自宅から近距離にあった。だから、父が亡くなる前の1カ月は、毎週様子を見に行くことができた。
 
人間はいつか死ぬ。そして、老健を替えたからこそ、最後により多くの時間を父と過ごすことができた。そう思えるようになって、ようやく後悔から解放された。
 
それにしても、いったい誰がこのような結末は想像するだろう。実家を出た時も、5人で協議した時も、全く予想だにしなかった展開だ。
 
実家を出てから20年以上に渡る父との葛藤は、こうして幕を閉じた。その結果、私も霊的に成長できたと思っている。これも原先生魔女のおかげだ。2人には心から感謝している。

もちろん、父の介護でお世話になったHさんやWさんにも。彼女たちには、足を向けて寝られない
 
ところで、今回紹介した止観シートは傷ついた人向けシートだ。そして、それをした時の私の心の浄化は、まだ「父と私は同じ穴の 狢(ムジナ)だ」という認識に止まっていた。
 
それが自分の方が悪い人間だと認めて、父に対して謝罪できるようになったのは、3回目のブレークスルーの時だ。父との本当の調和は、ようやくこの時にできたと思っている。
 
3回目のブレークスルーは、傷付けた人向けのシートをすることで訪れた。心の浄化は、傷ついた人向けシートをするだけでは片手落ちだ。傷付けた人向けのシートをしなければ、心の浄化の神髄はわからない。
 
だが、傷付けた人向けのシートをして、自分の醜さと向き合うことは相当きつい。だから、ほとんどの人が、傷ついた人向けシートで癒されると、そこで満足して止めてしまう。
 
しかし、このブログは心の浄化を1つの柱としている。なので、次回は傷つけた人向けシートを紹介する。そこでは、当然3回目のブレークスルーの体験についても書く。ただし、これからまた多忙になるので、しばらくは更新できないだろう。
 
その代り、記事の内容はより濃くしていく。最近の私は、体験の次元が飛躍的に上がっている。このブログを最初から読んでいる読者の方は、すでにお気付きだろう。できるだけ本にも載らないようなことを書くので、更新した時には、また読んでほしい。