この本の基調は、ある小説家が若い教師時代に書いた次の言葉に要約される。

 「私は驚くべき結論に達した。私がクラスの中での決定的要因なのだ。私が個人的にどのような態度をとるかによって、クラスが寒々としたものになるか暖かいものになるか、その気候が決まる。私の毎日の気分によって、晴れか雨かその天候が決まる。子供の生活をみじめなものにするか、あるいは楽しいものにするかを作り出すという恐ろしい力を、一教師としての私が持っているのである。

  私は拷問の道具にもなれるし、インスピレーションを与える媒体にもなれる。恥をかかせるか、ユーモアとして受け取ってくれるか、傷を深くするか、その傷をいやすか、ある危険な状態がより悪くなるか、反対によくなるか、そして子どもが人間らしくなるか、人間性のないものになるかを決定するのは、いかなる場合においても私の反応にかかっているのである。

   教育問題の多くは、次の二、三世代で解決されるであろう。新しい学習環境と新しい教育方法が生まれるに違いない。しかし、ある一つの機能――学習のための情緒的風土を作り出す――これだけは常に教師とともに存在するはずである。どんな機械も、たとえそれがいかに改良されようとも、この仕事をすることはできないのである。

 

 上記の文章は、1976年に出版された「ギノット博士の教育法」-教師と子どもの人間関係ーサイマル出版会からの引用です。

 熟読を薦めます。至言です。

 

 当時、全国的に中学校の校内暴力が華やかでした。この本を読んで深く感銘を受けて、その内容を身につけて中学校で実行しようとしました。

 問題なのは、この内容がそっくり今に生きるのということです。子どもとの関係作りにおいて、学校教育は全く進歩していないのです。これは大問題のはずなのです。

 

 もっとも江戸時代の「米沢藩の名君と言われた上杉鷹山」の師と言われている細井平洲という儒学者が「教育の心持を例えて言うなら、菊好きの人が菊を作る時のやり方ではなく、農家の野菜作りである」と言っています。これは型にはめることなく、自由に伸び伸びと育てることが大事だということなのです。

 

 江戸時代、いやそれ以前から、教育は変わっていないと言えるのかも知れません。

 

 どうしても、親や教師は自分の想いを子どもに押し付けようとします。「勉強しなさい」「忘れ物をしないように」などのことは、言えば言うほど子どもは「うるさい」と思うようになります。そして、親子関係の悪化に繋がっていきます。

※「勉強しなさい」と言ったら素直に机に向かったのであれば、また言えばいいのです。しかし、言ったら顔つきが悪くなったとしたら、止めることなのです。ここの判断が一番大事なのです。プラスの結果は続けるが、マイナスの結果は直ぐ止めることが大事です。

 

 昔から「言うは易し、行うは難し」と言われています。にもかかわらず、言う言う、よくもまあ、勝手な事を言い続けていると感心してしまいます。全然、子どもの気持ちは無視なのです。

 自分ことを棚に上げれば、何でも言えます。言えば言うほど言っている本人は良い気持ちになるようです。言われる方は嫌な気持ちにしかなりません。

 こんなことは、自分の事を振り返れば簡単に分かるはずです。長い話を好む人はいないはずです。子どもの頃、全校朝礼で校長先生の長い話を「早く終わらないかなぁ」と思いながら聞いていたことは忘れません。当然内容は全く頭に入っていません。これは至極当然のことなのです。ここの理解もない教師は、教室に入って校長先生が何を話したか子どもに詰問するのです。アホも良いところです。20分間話したら、子どもは何も覚えていません。3分間で1つの事を話して終わりにすれば、全員が覚えます。

 

 並である自分自身を基準にして判断すれば、ほぼ間違いはありません。「こう、あるべきである」「こう、あらねばならない」などという物の味方・考え方は、実際には役に立ちませんから、捨てることです。

 

 交流分析では、「〇〇すべきである」「〇〇しなければならない」と言う考え方を「自分自身に向けた人は聖人になれる」と言っています。ただ、それを「自分以外の人に向けた途端に嫌われる」とも言っています。ある人は「自分で出来ないことは言うな」とも言っています。全くその通りだと思っています。