叱責でも放置でもない「第三の対応」がある…中学教師が現場で見つけた「対立なし」の生徒指導

  上記のような生徒指導が、あたかも新発見のようにネットにアップされている。はっきり言ってあきれてしまう。こんなことは昔から分かっていた。ただ、現場の教師が不勉強なため知れ渡らなかっただけである。
 
 まず、親や教師は子供が10歳前後で、対応を変えなければならない。しかし、変えられない。何故か、自分が、今やっていることが最も簡単でやり易いから変えたくないのだ。
 
 残念ながら、昔から「親が変われば、子は変わる」と言われている。しかし、現実の親は、ひたすら子を変えようとする。だから、上手くいかないのだ。
 
 特に10歳前後で子どもの論理的思考力が大人並みになる。そのため、大人の言う矛盾点が直ぐに分かってしまい、反論することになる。大人は勝手だから、矛盾点を突く子供の言い分を反抗として片づけてしまう。
 
 弱者が、声を出したら、大体が正論なのだ。したがって認めればいいのにメンツに関わると勘違いして「屁理屈を言うな」なんて言ってごまかそうとする。子供は内心全く納得していないため反発心として残ることになる。これが繰り返されるほど、子供の反発心は増幅していき、あるところで反撃にでることになる。それが親であれば「家庭内暴力」てあり、教師であれば「校内暴力」である。
 
 追い詰められた人間の取る行動は、「逃げる」か「反撃する」か「自死する」かのいずれかと決まっている。
 
 「思いやりが大事だ」なんて偉そうに言うのは簡単である。思いやりがあふれば、子供の言動にも思いやれるはずだ。言われたことが出来ると思っているとしたら、大いなる勘違いである。誰も言われたことを直ぐに出来る人はいない。
 
 知的にアプローチしての結果は、あくまでも知識として頭に入るだけである。それを実行するためには、練習や訓練が必要なのである。
 
 子供に「勉強しろ」と言うのが、親や教師の役目だと思っていたら、子供は気の毒だ。「勉強しろ」と言われて、素直に机に向かうようであれば、また言えばよい。ただし、そんな子供は1人もいない。
 
 言われ続けて、「うるせえ、クソババア」と言ったのは、筆者だった。母親に支配された男子は不幸である。
 
 冒頭の「叱責」は意味がない。昔から、「注意・叱責の9割以上は、やっている人の欲求不満の発散でしかない」と言われている。ただ、この教師が不勉強で知らなかっただけなのだ。おそらく、正しい注意・叱責の仕方も知らないだろう。
 
 「放置」は無視であるから、最悪のやり方だ。昔、中学校で校内暴力が盛んだった頃、ヤンチャな生徒が「無視されるのであれば、怒られた方が良い」と話していた。当然である。人間は無視されるのが、最も辛いのである。
 
 当時の中学校で、校則を外して、注意しないで生徒指導主事として、校内の生活指導に携わって、市内で最も落ち着いた中学を実現して、校長には「生徒指導は、お前の好きにやって良い」とお墨付きをもらった。もう、40年以上前の話である。
 
 「第三の対応」ではないのだ。元々、注意したり無視したりする対応は邪道なのだ。本来の生徒指導的対応は人間関係を確立して共に歩んでいくためのものなのである。教師と生徒は「人間としては対等」なのだ。指導者としては上なのである。教師は、先ずこの違いを理解しなければならない。
 
 思春期以降は、「納得」が最も重要なのである。子供が納得できることを話していれば、絶対に反発されない。ただし、押し付けはダメであ。人間の反撃は最も心理的距離の近い人に向かい易い。多くは母親に向かう。くだらない校則は多くの生徒が納得していないで内心反発している。
 
  このブログは教師を主対象にしているにも拘らず、このブログを読む教師が、ほとんどいないということは嘆かわしいことである。教育や生徒指導について学ぶ気がないとしか言いようがない。読んでくださるのは、プロのレベルの方々ばかりなのだ。これでは教師が舐められてもしょうがない。
 
 自身の力量を高みに置こうとしないで、高みからの上から目線で子どもに物申しているのはプロではないと明言したい。