不登校の子がゼロに、子どもが「学び合う」授業に変えた小学校の大変化 教師自身が学び合う姿勢を持てることが大切

主体的・対話的で深い学びのベースとなる「聴き合う場」

 

 上記の事がネットにアップされていた。詳しく読む気は全くしない。何故か。あまりにもレベルが高すぎるからだ。これを全教師に目指させようとするのは狂気の沙汰だ。ますます精神疾患が増えてしまう。

 

①不登校がゼロになったのは何故かが解っていない。

②学び合う授業を実現できる教師が現実に何人いるのか。

③教師自身、学び合う姿勢が持てるのか。

④主体的・対話的とはどういうことなのか分かっているのだろうか。

⑤深い学びとは、具体的にどういうものなのかを示せるのか。

⑥「聴き合う場」なんていうものを作れるのか。

 

①不登校がゼロになったのは何故かが解っていない。‥について

 不登校がゼロになったのは簡単です。教師が口うるさくなくなったからです。

 戦後のベビーブームの時は、日本中で不登校がゼロでした。

 教師は、今よりはるかにいい加減でした。年寄りの女の先生のクラスは体育がなくなるとか、若い男の先生のクラスは毎日体育があるというように、今ほど教育課程に縛られていませんでした。

 5分前行動などというのも無く、休み時間にドッヂボールに興じてチャイムが鳴っても教室に入らず、良く怒られました。ということは、この程度の事をしない限り教師は文句を言わなかったのです。

 要するに先生がうるさくなかっただけのことです。

 度々文句を言われていると徐々にその教師が嫌になっていきます。昔は、細かいことには口うるさくなかったのです。当然、電話もないから、家に電話もかかって来ません。

   良い例がリースクールです。学校には行かないけれどフリースクールに行くのは何故か。フリースクールは自由だからという回答は正解ではありません。フリースクールは、やたら注意・叱責という文句を言われないからなのです。そういう意味においての自由なのです。

 

②学び合う授業を実現できる教師が現実に何人いるのか。‥について

 「学び合う」なんていう美しい言葉は、正直、聞き飽きました。学び合うということは、具体的にどういうことなのでしょう。具体性がない限り実現は不可能です。結果的に絵に描いた餅で終わります。校内研究などで「よくなった」と評価しますが、科学的な根拠に基づいての評価は皆無といっても過言ではありません。

 現実には、ほとんどの事が集団の事例研究どまりです。教育は一回性の原理の上に成り立つため、ほとんど対照実験ができません。それだけ客観性には乏しくなります。

 

③教師自身、学び合う姿勢が持てるのか。‥について 

 そもそも、教師が学び合っていないのではないでしょうか。学び合っていれば、これだけ大きく取り上げられている不登校について、その対応くらいは理解しているはずです。当然、予防的対応ができているため不登校は発生しなくなります。

 残念ながら、この学校の不登校ゼロは、たまたまでしかありません。不登校ゼロと学び合いは、全く関係ありません。不登校に関係するのは、教師がする児童・生徒への対応だけです。

 

④主体的・対話的とはどういうことなのか分かっているのだろうか。‥ついて

 主体的・対話的とは?これを明確に応えられる人は1人もいないのです。主体的も対話的も抽象のレベルが高すぎて、このままでは、共通理解は不可能なのです。誰もが、この2つの言葉は知っています。ただ、思い浮かべるイメージが正に十人十色になってしまうのです。

 そもそも、主体的とは、自発的⇒自主的⇒主体的と、より高次になっていきます。小学校の段階で、自主的な活動を保障できれば十分です。自主的な活動とは「児童が自分の活動は自分で考えて、自分で選択・決定して、自分で活動していくこと」です。これだけでも、保障できたら素晴らしいのです。主体手的な活動は大人でもできていない人だらけです。

 言葉をいい加減に使って、言葉の遊びをしていればいいのではありません。先ずは使用する言葉を明確にすることです。対話的は主体的のなかに含まれます。並列に並ぶ言葉ではありません。

 

⑤深い学びとは、具体的にどういうものなのかを示せるのか。‥についあれば

 深い学びがあれば、浅い学びがあるはずです。先ずは、その違いを明確にしなければなりません。読者が納得する説明が必要です。

 学習内容を覚えるのに、「空で暗記した」「5回書いて覚えた」「10回書いて覚えた」という3つでは、どれが深い学びなのでしょう。記憶は覚える時間と定着度でみる必要がありますが、これだけでは全く分かりません。

 沢山議論して得た結論は深いのでしょうか。そうとは限りません。だから、「下手な考え休みに似たり」と言われています。そもそも深いか熱いかなんてどうでもいいことなのです。学んでいくことが大事なのです。

 

⑥「聴き合う場」なんていうものを作れるのか。‥について

 聞くことはできても聴くことは簡単ではありません。私の体験した限りにおいては、上司や親、教師は聞くことも上手ではありませんでした。父親などは、意見を言えば「屁理屈を言うんじゃねぇ」と一蹴されました。

 教師が、キチンといじめの訴えを聴いていれば、いじめ自殺は起こりません。聴くということは、特に年長者は年少者に対して下手くそです。

 

 言葉の抽象度の学習が十分ではありません。例えば、犬⇒シェパード⇒我が家のポチ、というように全体⇒種類⇒一匹の犬と明確になっていきます。

 ところが、上記の文章は、全ての言葉の抽象度が高すぎて理解が明確にはできないのです。議論には向いているかもしれませんが、不毛な議論に終始します。

 教育は現実改善の営みであって、想像の世界の事ではないのです。そこで必要なのは明確化なのです。

 

 ここで言われていることは、子供に対してではなく、先ず教師自身が実行することだと考えます。教師が上記の事をクリアできるように努力することが何よりも大事ではないでしょうか。「教育は人なり」といすうのは、教師の力量次第ということです。