「多少とも単調な生活に耐えうる能力は、子どものときに習得しておかなければならないものである。この点において現代の親たちは、大いに非難されてしかるべきである。

 彼等は子どもたちにあまりに多くの受動的な楽しみ、たとえばショーとかうまい食べ物といったようなものを与え過ぎている。そして彼ら(現代の親たち)は、今日も明日も同じような一日を送ることが、子どもにとって大切であることに気づいていない。もちろん、いささか特別な事のある場合は別であるが。

 子ども時代の楽しみというのは、主に子どもが何らかの努力と創意工夫することにより、自分の環境から自分自身で引き出すようなものでなければならない。胸が躍るような楽しみ、しかも同時に何ら身体を動かす必要のない楽しみ、たとえば、芝居を見るといったようなことは、始終あってはいけない。

 興奮は後になるとますます多量に欲しくなってくる麻薬のような性質を持っているものだ。そして、興奮の中にあって身体が受け身であることは、本姓に逆らうものである。

 子どもは、苗木のように、同じ土壌で乱されることなく静かな状態のときに、一番よく成長する。

        バートランド・ラッセルの「幸福論」の第4章、退屈と興奮の一節

 

 上記の文章は、100年以上前に書かれたものである。にもかかわらず、現代に、そのまま通用するという点が問題なのである。

 

 100年以上前に、親たちは、大いに非難されてしかるべきと言っているということは、現代は更に大いに非難されてしかるべきなのだ。当然、教師もである。

 

 「あまりに多くの受動的な楽しみを与え過ぎている。」と言っているが、現代は、それ以上である。

 

 特に、次の「」内の文章が重要である。

 「子ども時代の楽しみというのは、主に子どもが何らかの努力と創意工夫することにより、自分の環境から自分自身で引き出すようなものでなければならない。胸が躍るような楽しみ、しかも同時に何ら身体を動かす必要のない楽しみ、たとえば、芝居を見るといったようなことは、始終あってはいけない。

 「子どもは、苗木のように、同じ土壌で乱されることなく静かな状態のときに、一番よく成長する。

 

 同様の事を、江戸時代の名君と言われた米沢藩主・上杉鷹山の師と言われた儒学者・細井平洲が「人を教育する場合の心持は、たとえて言うなら、菊好きの人が菊を作るやり方のようにしてはならない。そうでなく、百姓が野菜や大根を作るようにすべきである。」

 菊栽培は花の姿形をねらうが、百姓は上出来も不出来も大事に育てて無駄をしない。

 

 上記の2つは、それぞれ100年以上前に言われていて、当時から大人は子どもに対して、自分の枠組みを押し付けたり、過保護・過干渉であったりしたということである。

 

 それにしても、現代の日本における押し付けや過保護・過干渉は、度を超していいるのではないだろうか。⇒その延長線上にあるのが30万人の不登校である。

 

 自身が子育てをするときから、上記の事は知っていたので、出来る限り実行してきた。その結果、親としても教師としても、余計なことをしないで、苗木のように同じ土壌で乱さないように配慮したため、子どもも一番よく成長したと考えている。

 

 これは子育てで最も大事なことを言っているので、是非、実行していただきたい。それこそ、子どものためである。

 

 主に子どもが何らかの努力と創意工夫することにより、自分の環境から自分自身で引き出すようなものでなければならない。⇒これに最も当てはまるのが、子どもの外での遊びである。遊びを保障しない限り、問題は決して尽きることはない。

 

 ※最重要で根源的な事なので再掲載した。